青い空はポケットの中に - 『映画ドラえもん のび太と奇跡の島~アニマルアドベンチャー~』、あるいは映画ドラえもんの「オリジナル」について

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『映画ドラえもん のび太と奇跡の島~アニマルアドベンチャー~』、あるいは映画ドラえもんの「オリジナル」について

 3月3日(土)は『映画ドラえもん のび太と奇跡の島~アニマルアドベンチャー~』の公開日です。本来であれば「大人だけのドラえもんオールナイト」にて鑑賞する予定でしたが、今年はイベント自体が開催されないことが判明したため、新宿ピカデリーでの鑑賞となりました。夜の回でしたが、まだまだ親子連れが数多く見られました。

 以下、ネタバレを含みますので、その点をご留意の上でお読みいただければ幸いです。

奇跡の島パンフ

 はじめに重要な点を申し上げておくと、この作品は映画ドラえもん30年以上の歴史を踏まえた場合に当然生じる観客の立場の変化に、長編映画として初めて向き合った作品かもしれません。そういう意味ではドラえもん映画史におけるエポックメイキング的な作品になり得たのでしょうが、全体としてはつくづく印象に残らない作品になってしまったというのが偽らざる感想です。

 『のび太と奇跡の島』は、原作の短編「モアよドードーよ、永遠に」(てんとう虫コミックス第17巻)をベースにしています。ご存じの方も多いかと思いますが、このエピソードは『のび太と雲の王国』(1992年)の前日譚となる一編でもあります。『ドラえもん』という作品を構成する要素のひとつに「エコロジー(環境保護)」があり、これ以降、映画ドラえもんは環境保護のメッセージ性を強く打ち出していくことになります。もっとも、藤子・F・不二雄先生自身は『ドラえもん』が環境保護の錦の御旗と化すことを余り快く思っていなかったとも聞きますが。

 藤子F先生が生前述べられていたように、映画(大長編)ドラえもんの世界では「現実世界には一切影響を与えない」という暗黙のルールがあります。のび太たちが世界の存亡を懸けた大冒険を繰り広げても、問題を解決すれば何食わぬ顔で帰ってきて、翌日からはまた学校に通うのです。

 『ドラえもん』の世界観においては、大人は往々にして「住む世界は異なるが、折り合いをつけて受け入れていく存在」であり、対立とも共闘も異なる倫理観が通底しています。映画(大長編)『ドラえもん』世界における大人の存在については、『のび太と竜の騎士』(1987年)を参照していただくのが分かりやすいでしょう。短編にも目を向けると藤子F先生の大人観がよく現れているエピソードは比較的多く、「パパもあまえんぼ」(てんとう虫コミックス第16巻)、「りっぱなパパになるぞ!」(同16巻)、「45年後…」(同『ドラえもんプラス』第5巻)辺りをお読みいただければ氏の思想を窺い知ることができると思います。
 
 ところが、『のび太と奇跡の島』にはある”禁じ手”と呼べるようなキャラクターが登場します。それはのび太のパパであるのび助です。少年時代ののび助が、ダッケというキャラクターに扮して物語の重要な役割を担っていくことになります。

 物語の冒頭、いつも以上にのび太のパパが全面に出ていることに気づくことでしょう。この時点で、この映画に他の映画ドラとは異質な空気を感じます。いつも以上に前景化された大人たち。唐突に挿入されるのび太の生まれた日(てんとう虫コミックス第2巻「ぼくの生まれた日」)のエピソード。この時点で、「今年の映画はかなりの問題作になるんじゃないか?」という淡い期待が頭をよぎったのは事実です。しかし、ダッケの正体が早々にのび助であると判明してしまう辺りから、辛くもこの期待は崩れてしまうことになるのですが。

 さて、本作の主題は大まかに「親子の絆」と「自然保護」に分けられます。この映画の大きな欠点を挙げるとすれば、テーマの語り口が不明瞭な上に表層的で、何の物語なのか分かり難いところにあります。焚き火を囲んで親子の絆を再確認するシーンなど、そこだけを取り出してみれば見所はあるのですが、些か唐突な挿入の仕方であるために、映画全体から俯瞰すると歪な箇所に感じられてしまうのです。

 このように、本作は各シーンがパッチワークのように連続しているために中途半端な印象が拭えないのが残念です。主たる観客である子どもに対しても親切であるとは言えず、話法としては不適切であると言わざるを得ません。

 テーマが多岐に渡っていることは、必ずしも悪いことではありません。あるテーマともう一方のテーマ(例えば「日常」と「非日常」)を、また別のテーマと重ね合わせ、二項対立の中を往還しながら物語が一本の太い幹に収斂していくような見せ方もあるからです。細田守監督作品が代表的ですが、アプローチは違えど「現実世界」と「異世界」を巧みに溶け合わせながら進行していく宮崎駿(スタジオジブリ)作品もそのような世界観を共有していると言えます。

 また、『のび太の南海大冒険』(1998年)以降、藤子・F・不二雄原作ではないオリジナル作品の悪しき伝統として、日常と非日常を接続する話術が圧倒的に不足しているという問題があります。つまり、のび太たちが主たる冒険の舞台とする異世界が、恒例化しているキャラクターのコスチュームとも相俟って、言わば取って付けたような箱庭になってしまっているということです。タイトルにある「奇跡」という語を最初に目にした時、また『のび太の人魚大海戦』(2010年)のような箱庭的世界になってしまうのではないかという危惧がふと頭をよぎったのが思い出されます。

 日常と非日常の融合は、生活ギャグ漫画を基調とする藤子・F・不二雄作品の特質として、最も良く引き合いに出されます。物語の入り口で読者(観客)をグッと引き込む話術は氏が好んだ古典落語の影響が垣間見えますし、異なる世界を接続する圧倒的な説得力は豊富な読書量と映画体験に根ざしていると考えられます。

 この日常と非日常の融合を最も端的に味わえる作品は『のび太の魔界大冒険』(1984年)であると個人的には思います。あるいは『のび太の大魔境』(1982年)も捨てがたいところです。映画(大長編)ドラえもんにおいて直接的には冒険に参加しないキャラクターである出木杉が、ここでは語り部として大きな役割を任されることになります。彼の語りは、まるで枕(=日常)からいつの間にか本題(=非日常)へと入って行く手練の噺家の語り口のように饒舌です。

 果たして、残念ながら『のび太の人魚大海戦』でも見られた説得力の欠如を、この映画も受け継ぐことになってしまいました。一体全体、物語の舞台であるベレーガモンド島はいつ、どのようにして存在しているのでしょうか。劇中では未来の世界であることと「宇宙パワー」なる些かファンタジックな力で守られていること以外は大きな説明がありません。しかも、その大半を説明的な台詞によって処理してしまっていることも物語の消化不良を助長する一因となってしまっています。

 ロッコロ族や絶滅動物に関しても、その出自が明らかになることはありませんでした。コロンとクラージョというゲストキャラクターそのものは魅力的ですから、彼らのディテールに深みを与えるエピソードが欲しかったところです。

 ゴールデンヘラクレスに守護されたベレーガモンド島という設定自体は、ひと夏の小さな冒険(たとえば近所の裏山)や、子どもが好むロールプレイングゲーム的世界の延長線として構築していけば、決して無理筋な世界観ではないと個人的には思います。ただ、それを日常世界と繋げる動機が不十分でした。ここは無難に「モアよドードーよ、永遠に」の物語を丁寧に拡張していけば、傑作とはいかないまでも十分鑑賞に耐えうる作品になったのではないかと思います。『のび太の海底鬼岩城』(1983年)や『のび太と雲の王国』のように、冒険世界をのび太たちの手で作り上げるという喜びは、映画(大長編)ドラえもんの大きな醍醐味のひとつなのですから。

 そして、作品全体の大雑把なテーマをキャラクターにそのまま当てはめてしまっているご都合主義なところも看過できません。例えば冒頭のパパが言う「いつもママやドラえもんに頼ってばかりで……」というステレオタイプな台詞、そして金魚を顧みないのび太の行動は、『ドラえもん』という作品を深く理解した上での演出とは言い難いものです。ご承知の通り、のび太は怠惰で面倒くさがりな性格ですが、生き物に対しては誰よりも慈しみをもって接する少年です。そんな彼が安易に金魚の飼育を放棄するとは到底思えません。
 
 言及していない部分では、のび太とカブトムシのカブ太の交流も並行して描かれますが、のび太のカブ太に対する扱いも疑問が残りました。カブ太をロッコロに渡す必要があったのか、ロッコロが山道で落とす必然性は何かあったのか、そう考えながら観ると、クライマックスのシャーマン(悪役)のメカと巨大化したカブ太との戦いが陳腐なシーンに思えてきます。あえて注文を付けるとしたら、当該シーンも機械文明(=メカ)と自然(=カブ太)との対比という軸で運べば物語に深みを与えられたかもしれません。
 
 他にも、嫌味なリアリストに感じられてしまう出木杉や、唐突に「いい人」化するジャイアン、そして不自然なまでに勇気を示すスネ夫の言動など、粗を探せば枚挙に暇がないほどです。

 アニメーションとしての表現にも触れておきましょう。各ショットを概観した限り、楠葉監督はキャラクター(の上半身)をアップで見せる構図を好むようです。基本的にフレームの大半がキャラクターで占められており、子どもにとって「分かりやすい」画作りを志向した結果と言えます。とはいえ、『のび太の恐竜2006』の恐竜バトルのような作画のダイナミズムや、寺本幸代監督作品のような背景ディテールの精緻さは本作にはありません。また、渡辺歩監督作品のようなキャラクターの細やかな機微や、情感たっぷりな風景描写といった先鋭的な演出技法も見られず、ほぼ淡々としたタッチで進行していきます。

 個人的には淡白な演出のアニメーションが好きなので、いわゆる「作画アニメ」と呼ばれるような、構図やパースを捨象してでも運動のダイナミズムを追求するアニメはどちらかと言えば好みではありません。とりわけアニメの制作環境がデジタル化してからは、セルや写真、CGといったテクスチャーを巧みに使いこなしてみせるアニメに魅力を感じます。制作会社で言えば、シャフト(新房昭之)の作品は好きな部類に入るということです。

 話が逸れてしまいました。本作は止め絵も多用していますが、これもテレビアニメに頻出する手法でしかなく、劇場版のクオリティをスポイルしてしまったように感じられました。辛辣な言い方になってしまいますが、全体として「説明下手な紙芝居」のような印象を受けてしまうのです。淡々としているからといって必ずしも地に足の付いた作風にはならないことを、この映画は図らずも自ら証明してしまっています。

 「作画アニメ」ではないところで、即ちアニメーターに頼らずにアニメーションとしての表現を最大限に引き出すためには、レイアウトを重視するか、あるいは絵コンテをきっちり作るかのどちらかになるでしょう。前者はスタジオジブリのお家芸なので脇に置いておくとして、近年のアニメ監督の多くは後者を採用しています。後者の代表例の一人が押井守監督であることに異存はないでしょう。

 恐らく、『のび太と奇跡の島』は絵コンテをきっちり描き込んでいないのではないかと邪推したくなります。スタッフロールを見る限り絵コンテも楠葉監督の手によるとのことですが、彼の絵コンテを見てみたくなりました。

 キャラクターデザインについては、これまでの金子志津枝さんではなく、大城勝氏が担当しています。アニメ『ドラえもん』の声優交代を経た、『のび太の恐竜2006』(2006年)以降の劇場版のキャラクターは、手描き風の描線に、ぬいぐるみのような柔らかいアクションを基調としています。このキャラクターデザインについては好き嫌いが分かれそうですが、私は前々から非常に先鋭的な試みを行なっていると思っています。本作も基本的にこの路線を踏襲していますが、些か漫画的なタッチに終始しており、キャラクターそれ自体の運動も控えめです。

 ただ、キャラクターのトーンと呼応した背景美術の遠景・近景の処理には目を見張るものがありました。冒頭の東京タワーと東京スカイツリーが並んだショットはこの映画で最も印象に残っています。昭和/20世紀から平成/21世紀へと移りゆく時代の流れと、「大人」と「子ども」、あるいは「親」と「子」といった主題を絡めながら展開していけば中々の”問題作”になったのではないかと思うと、つくづく煮え切らない作品に感じてしまいますね。

 既に多くの方が指摘されていますが、本作はどうやら東日本大震災が作劇上のメンタリティに大きな影を落としているようです。ジャンルを問わず、昨年の3月11日に発生した震災がクリエイター達に与えた影響は甚大なものでした。震災直前に観た『新・のび太と鉄人兵団 ~はばたけ 天使たち~』でも、ザンダクロスがビルを破壊するシーンの見方がガラリと変わってしまうくらい、大なり小なり私たちにも分断を生じさせる出来事であったと思います。

 この映画の上滑りした構造は、震災を経た制作現場の混乱を物語っているのかもしれません。

 思うに、『ドラえもん』という作品を原作の持ち味を損なうことなく、スクリーンを縦横無尽に動き回る冒険活劇に仕立て上げることは至難の業なのでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、『ドラえもん』という作品に厳然と横たわる原作の圧倒的な存在、そしてキャラクターや舞台に与えられた豊かな表情が、制作者の足かせになってしまうことがあるからです。シンエイ動画の二大看板である『ドラえもん』と『クレヨンしんちゃん』で言えば、才能ある演出家の多くは『クレヨンしんちゃん』を作りたがっていたと聞きます。かの原恵一監督も、キャラクターを自由に動かせる『クレヨンしんちゃん』だからこそ『オトナ帝国の逆襲』や『戦国大合戦』のような傑作を生み出すことができたと言えます。クレしん映画においては別格扱いされているこの2作であっても「クレしんらしさに欠ける」と評する声があるくらいですから、いわんやドラえもんをや、といったところでしょう。

 上記の「足かせ」に関しては、藤子F先生亡き後のオリジナル作品に突出して見られる傾向があります。それは、物語において「ひみつ道具」の使用制限それ自体が目的化してしまっているということです。ひみつ道具の使用制限は『大長編ドラえもん』の後期にも見られますが、あくまでストーリー展開の手段であって、道具に頼らないことが主題になった例は基本的にありません。『のび太の南海大冒険』において、ポケットのないドラえもんがフィーチャーされていたことが象徴的です。要は「ひみつ道具に頼らずに問題を解決する」ことが近年の映画ドラえもんにおける一大テーゼとなってしまっているのです。

 特にファンではない人と一緒に映画ドラえもんを観ると、「どうしてあの状況であの道具を使わないのか?」という疑問を呈されることがままあります。これを野暮なツッコミであると切り捨てる前に考えてしまうのは、ひみつ道具の在り方が、特に近年の映画ドラえもんに大きく立ちはだかる理解の壁になっているのではないかということです。

 『のび太と奇跡の島』においても、執拗なまでにタケコプターやどこでもドアといった代表的な道具を破壊するシーンが挿入されており、物語の展開においてひみつ道具がもたらす効果を注意深く取り除いているように見えました。これが「マイナーな道具を工夫して使いながら事件を解決する」という方向性ならば一目置けますし、実際にそのようなシーンも見受けられましたが、いずれにせよ不十分な感は否めませんでした。

 「ひみつ道具」という存在が、余りにも大きくなりすぎてしまったのでしょうか。

 実際、ドラえもんのポケットには常時あらゆる道具が入っていると思っている人が多いと聞きます。確かに、「方倉設定」と呼ばれる初期の設定においては、ポケットに手を入れると欲しい道具がその場で生成されるという仕組みだったと記憶しています。しかし、『ドラえもんひみつ道具完全大事典』(小学館、1994年)における藤子F先生の序文によれば、ドラえもんのポケットに常時入っている道具の数は10~20個程度(この辺り記憶曖昧)で、経費節約のため試供品や1回限りの使い捨て品も多いとのことです。

 言うまでもなく、ドラえもんのひみつ道具はこの作品を構成する重要な要素のひとつです。藤子F先生が「ドラえもんはナンセンス漫画」と述べられていたように、ナンセンスな状況をナンセンスな道具を用いて解決するというナンセンスな面白さが『ドラえもん』には一貫しています。
 
 再三強調しておきたいのは、ひみつ道具は制約されたページ数(アニメで言えば尺)で物語を効率的に面白く進めるための手段であって、道具それ自体の存在は大きな問題ではないということです。

 声優と主題歌についても触れておきましょう。今年は龍田直樹(ゴンスケ)、田中敦子(ケリー博士)、野沢雅子(ダッケ)、水樹奈々(ロッコロ)、山寺宏一(シャーマン)といった豪華声優陣が映画を彩っています。各人とも流石の演技であったのは言うまでもありませんが、特にダッケに関しては、野沢さんの持ち味とキャラクターがマッチしていないような印象を受けました。主題歌「生きてる生きてく」を歌ったのは福山雅治さんで、作品に合った素敵な楽曲だと思います。惜しむらくは、主題歌に比例した作品のクオリティであって欲しかったということです。

 ところで、興味深いのは、「日本を代表する声優陣」が本作の大きな売り文句になっているということです。昨年、『のび太と奇跡の島』のタイトル発表時に上記の名前が踊っているのを目にした際は、コンテンツとしての映画ドラえもんが転換期を迎えたのかもしれないという予感がしました。マス向けか否かに限らず、多くの劇場版アニメにとって芸能人・有名人のゲスト声優への起用は日常茶飯事となっています。その是非についてこの場で語るつもりはありません。ただ、ゲスト声優の存在は商業映画としての一種の担保になっている面は否めず、豪華声優陣を売りにした今年の映画ドラえもんが袋小路に入ってしまうのではないかという不安があったのです。

 結果としては、その不安は杞憂に終わりました。ほんの端役でしたが、小栗旬(甘栗旬)、鈴木福(フーク)といったゲスト声優の起用があったからです。恐らくは、豪華声優陣の起用を前面に押し出したのは、大人ヘのアピールを企図する狙いがあったのでしょう。それは本作の(相当に上滑りでしたが)「親子の絆」という主題にも合致するからです。とはいえ、その狙いが十分に行き届いたかと言えば、今後の趨勢を見守る他ありません。初日舞台挨拶に行かれた方のレポートによると、今年は例年以上に声優ファンと思われる大人の姿が多く見られたとのことです。

 総評としては、よくよく観れば何の映画だか理解できない、けれども「子どもに安心して”見せ”られる」表層のパッケージングは何とか取り繕っている、そんな作品といったところです。子どもが面白がって観てくれるかどうかはともかく、子ども向けアニメ映画のプロダクトとしてギリギリ皮一枚のところで繋がったのは、ひとえに楠葉監督の功績と言えましょう。

 ただ気がかりなのは、上映終了後に「なんか終わり方が半端じゃなかった?」という子どもの声が聞こえてきたことです。子どもにそう言わせてしまうのは作品としてどうなのか、と首を傾げてしまいました。ドラえもんのタヌキネタで一度館内が沸いた以外は上映中に笑い声が起きることもなく、本当に子どもたちが楽しんでくれたのか疑問符が付きます。

 おまけとして、これは大きなネタバレになってしまいますが、来年の映画ドラえもんは本格推理物(?)になるようですね。何となくですが、今後の「オリジナル作品」として映画ドラえもんの未来を左右する重要な一作になるような気がしないでもありません。

 ドラえもんファンや藤子・F・不二雄ファンからは厳しい評価の相次いだ『のび太と奇跡の島』ですが、この文章にしろ、ある一定の見方を押し付ける意図はないことを最後に申し添えておきます。

 映画もアニメも、作り手が一方的にメッセージを伝えて終わるほど単純なものではなく、読み間違いも含めて多様な解釈へと開かれています。だからこそ「ファンならばこう見るべき」という固定観念に囚われることなく、様々な見方に寛容でありたいものです。

P.S. 「はてなブログ」にサブブログを開設しました。こちらもよろしくお願いします。
http://rainyblue.hatenablog.com/




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