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つつじ URL 2013-01-26 Sat 11:59:50

はじめまして。
セカイ系作品が好きな僕にとって大変参考になりました!
他のセカイ系作品(エヴァとか)と比べても、「家族」というSWのアイデンティティーは魅力的です。
ただ、SWが『きみとぼく系』って言われると「う~ん?」ってなっちゃいます^_^; ケンジと夏希先輩の関係がそんなに重要ですかね・・・f^_^; ラブマシーンを倒したのはまぎれもなく家族全員ですし、おばあちゃんの力で家族(+旧友?)が一丸となって戦ったのは『きみとぼく』の崩壊だと思われます。結局2人だけじゃ世界救えないじゃん!と。多分。
  と、この文章を読んで感じた事をコメントさせていただきます。ありがとうございました。

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映画『サマーウォーズ』のセカイ系的考察

見ようと思いつつ時間が過ぎてしまった『サマーウォーズ』をようやく見ることができた。『時をかける少女』(2006年)で各方面から高い評価を獲得した細田守監督の最新作だ。劇場は吉祥寺バウスシアターで11:35の回。さすがに平日の午前中では客は学生3人とまばらだった。バウスシアターは近所だし好きな映画館なんだけど、さすがにこの時期では最も小規模なシアターで、スクリーンや音がもう少し大きければ申し分なかった。

見終わった後、多くの人と感想を共有したいという欲求を励起される映画だと思った。できれば誰かと見に行って、その人と感想を語れれば良かったかもしれない。きっとこの映画は、見た人によって感想が180度変わる可能性を秘めていると思う。なので『サマーウォーズ』を見に行かれた方は少しでいいので感想を教えてもらえると嬉しい。

動画・背景・CGは画面上に違和感なく溶け込んでおり、「OZ」の無機質でポップな世界と長野県の旧家というミスマッチな世界観も、どちら一方が浮くことなく物語にマッチさせることに成功している。朝顔の見せ方や泣き顔の描き方、大おばあちゃんと幼少時の侘助が畦道を歩くシーンの美しさなどはいかにもジブリ的な演出であり、細田監督がジブリの系譜に連なる人物であることを示唆している。

声の出演はほぼ職業声優ではなく、俳優や子役がキャスティングされている。私は基本的にアニメーション映画で職業声優を軽視したキャスティングは嫌いだが、『サマーウォーズ』ではむしろ素人臭い演技が好感につながった。主演の神木さんや桜庭さんは結構いい味出してたんじゃないかと思う。



▼セカイ系と『サマーウォーズ』
予告編を目にしたときから何となく、『サマーウォーズ』「セカイ系」ではないだろうかという思いを抱いていた。「セカイ系」とは、およそ「『きみ』と『ぼく』との間の閉じた関係性が、何ら具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』と直結している」ストーリーの特徴をもった作品群のことを指すといわれている。勿論明確な定義があるわけではなく、論者によって様々な定義が提唱されている。

代表的作品として『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明)『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)『ほしのこえ』(新海誠)がよく挙げられている。そのルーツは『エヴァ』にあるとする人もいれば、ライトノベルの諸作品を挙げる人もおり、更には村上春樹作品の影響を指摘する人もいる。

大抵の場合において「きみ」は物語のヒロインであり、特殊な能力を与えられていたり、非人間的存在だったり、世界の危機と直接対峙する存在だったりする。対して「ぼく」は物語の主人公かつ一人称視点で、およそ平凡な人物として描かれており、「きみ」に翻弄されたり相互に影響し合いながら「きみ」との関係を深化させていく、といった構図で往々にして語られる。

「セカイ系」という用語はやや批判的な文脈で使われることが多いようだ。その「セカイ系」の受容を世代論で区切ってしまうのはいささか横暴だが、多分こうした作品群を受け入れられない世代は存在するのではないか。つまり、「セカイ系」的物語の受容には一種の世代間断絶が存在する。単刀直入に言ってしまえば、『エヴァ』を楽しめたかどうかが境目なのかな、と。

ある意味、「セカイ系」は個人主義の産物ということもできるだろう。「世界の危機」は「きみ」と「ぼく」というごく個人的な関係内で完結している。家制度や大家族、地縁共同体といった価値観はとうの昔に崩壊するか希薄化しており、それに伴って発生した核家族や一人っ子などのごく個人的な人間関係のみで育ってきた世代が「セカイ系」的作品の担い手となっている面は指摘できるだろう。細田監督も一人っ子だというし、「セカイ系」の担い手または受容層に一定のジェネレーション・ギャップが存在することにはある程度の説得力があると考える。

そして、結論と言えるかは微妙だが、「『サマーウォーズ』は「セカイ系」の応用型である」との認識に至った。

以下、ネタバレを含みつつ、卒論のネタ探しのつもりで思いついたことを取り留めもなくメモ書きしていくので未見の方はご注意ください。勢いで書いたのできっと間違いや勘違いもあると思うけどその辺はご容赦を。



▼娯楽映画としての『サマーウォーズ』

あらすじは公式サイト等で確認してほしいが、物語は非常にオーソドックスかつ娯楽作品としては典型的である。脚本面では、必要な情報は過不足なく観客に提示され、あらゆるファクターは伏線として回収されるし、すべてのキャラクターには物語的救済が与えられる。演出面では、青春と恋愛的要素の導入、ひと夏の冒険/成長、重要人物の死、(活劇的な)カウントダウンなど、娯楽映画に典型的な要素がこれでもかと詰め込まれている。すなわち、カタルシスを得るのには十分であって消化不良や後味の悪さを感じることはない。脚本の奥寺佐渡子氏が「本当の娯楽映画を目指したい」(公式パンフレット)と述べているように、「娯楽映画」としての強度は十二分に高いのだ。



▼なぜ『サマーウォーズ』は「セカイ系」なのか
『サマーウォーズ』
は主人公である健二が憧れの先輩である夏希に頼まれ、夏希の彼氏(フィアンセ)に偽装して長野県上田市にある彼女の実家へ赴くところから始まる。そして物語は基本的に「きみ」(夏希=ヒロイン)「ぼく」(健二=主人公)との関係を軸に進んでいく。

そこへほとんど唐突に、電脳世界のSNS「OZ(オズ)」のハッキングを契機とした「世界の危機」が訪れる。そして最終的には、具体的(より正確にいえば社会的)な中間項を挟むことなく、健二と夏希によって「世界の危機」は解決される。

物語の要素を抽出してみれば、『サマーウォーズ』には多分に「セカイ系」的要素が含まれており、基本的に「セカイ系」作品として規定してしまってもよさそうだ。だが、『サマーウォーズ』が従来の「セカイ系」作品と決定的に異なるのは、「家族」を重要なファクターとして対置させたことである。物語における「家族」は「OZ」の対立概念であると考えられ、【「きみ」と「ぼく」】と【「世界の危機」】との間に介入する擬似的中間項でもある。『サマーウォーズ』における「家族」の役割については後で述べることにする。

さて、『サマーウォーズ』の「セカイ系」的性質を規定している最大の要素は間違いなく「OZ」である。「OZ」は個人と世界を直接的に接続する概念装置であり、「OZ」を媒介に、主人公とヒロインあるいは家族は直接「世界の危機」と対峙することが可能になっているからである。「OZ」のハッキング首謀者であり、かつ「世界の危機」をもたらしたAI「ラブマシーン」は、健二と夏希、あるいはカズマ侘助といった大家族の一員と「OZ」を媒介に直接リンクしており、彼らの働きかけに対して「ラブマシーン」は逐一応じていることからも「OZ」の「セカイ系」的性質が窺えよう。

「OZ」の対立概念としての「家族」の世界は主に前半に描かれる。「OZ」の危機に際して大おばあちゃんが知己や有力者に片端から電話をかけるシーンが象徴的だ。ここではあくまで「OZ」に対する「家族」、すなわち共同体的価値観の優位性が示される。そして大おばあちゃんの死によって、後半の物語世界は「セカイ系」的世界である「OZ」へと移行していく、というのが一般的な見方だろう。

その見方はもちろん正しいが、ただ私は【前半=家族】、【後半=OZ】という単純な図式であるとは必ずしも思えず、基本的に物語は一貫して「セカイ系」的世界を描いており、そこに「家族」が介入していく、といった構図の方が近いのではないかと感じた。

そして『サマーウォーズ』の「セカイ系」的な最大の見せ場は、「OZ」内で夏希のアバターが「ラブマシーン」と花札で勝負する場面だろう。物語前半に家族とのコミュニケーションの場で用いられた花札を伏線としてクライマックスに持ってくる演出も見事だが、「世界の危機」が、いち女子高生の花札によって解決されるという構図は実に「セカイ系」的である。そして世界中のアバターが、何ら具体的中間項として機能することなく皆一様に夏希のアバターに力を貸し、やがてはひとつに融合することで、夏希のアバターは翼をもった巨大な姿に変身するのである。

この特撮ヒーロー的な、あるいは美少女戦士的なイメージを参照した大掛かりな演出はある意味では荒唐無稽にも見える。だが、私はこのシーンで最も物語に没入したし、最も感動できたのである。つまり私は「セカイ系」を違和感なく受け入れられる世代ということになる。個人的には夏希の「こいこい!」のぶっきらぼうな言い方が気に入った。だが、そうでない人にとってはこうしたシーンはお笑い草でしかないのだろう。

重要なのはヒロインが「世界の危機」と直接対峙することであって、それは「セカイ系」作品の必須要件といってもよいだろう。

「セカイ系」は「きみ」と「ぼく」との関係を基軸にしている以上、物語の基本は二項対立である。このことは『サマーウォーズ』でも顕著であり、物語内で「家族」のある要素は、「OZ」内の特定の要素と逐一対応している。この描写は徹底されており、そうすることで戦国時代の合戦を「OZ」内の対「ラブマシーン」戦における戦術として応用してしまうようなシーンが違和感なく物語と調和しているのではないだろうか。

〔例〕「家族」⇔「OZ」
・大家族(夏希)⇔核家族(健二)
・個人⇔アバター
・戦国時代の合戦⇔対「ラブマシーン」戦
・家族の危機⇔世界の危機
・高校野球⇔「OZ」内部での戦い
・カズマと少林寺拳法⇔キング・カズマ(格闘ゲームチャンピオン)
・健二と夏希の恋(?)⇔侘助と夏希の初恋←※一種の代理戦争
・etc...


▼「セカイ系」的物語における擬似的中間項としての「家族」

「セカイ系」
的切り口で『サマーウォーズ』の物語を図式化してみると以下のようになる。

〔A〕「きみ」(夏希=ヒロイン)と「ぼく」(健二=主人公)の出会い
          ↓
〔B〕【閉じた人間関係が「家族」に拡張】:擬似的中間項
          ↓
〔C〕OZの暴走をきっかけとした「世界の危機」の発生
          ↓
〔B'〕【「世界の危機」は「家族の危機」に収斂】:擬似的中間項
          ↓
〔C'〕最終的に「きみ」と「ぼく」との間で「世界の危機」を解決
          ↓
〔A'〕「きみ」と「ぼく」との関係の成立(キス=恋愛の成就)

すなわち、「きみ」と「ぼく」という閉じた関係性を「家族」に拡張させ、「世界の危機」「家族の危機」に収斂させていくことによって、「セカイ系」の物語を「セカイ系」のまま拡大再生産することに成功しているといえるだろう。

この「家族」の存在は、「セカイ系」的物語における擬似的中間項の役割を果たすとともに、「セカイ系」的物語の受容における緩衝材の役割を果たしているのではないだろうか。この記事の冒頭で、「セカイ系」的物語の受容には一種のジェネレーション・ギャップが存在するのではないかと述べたが、「家族」というファクターの存在によって、『サマーウォーズ』を、紛れもなく「セカイ系」的物語でありながらあらゆる世代に受容可能な作品として成立させてしまっているのは特筆すべきだ。

「擬似的」中間項としたのは、『サマーウォーズ』があくまで「セカイ系」として位置づけられていることを明確にするためである。「セカイ系」を持ち出すときに語られる中間項とは「社会性」のことであり、それはアニメの成立以来連綿と続く「リアリズム」の系譜でもある。具体的には主人公がある組織の一員だったり、物語に国家機関が介入したりすることであるといえよう。

しかし「家族」はあくまで「きみ」と「ぼく」との関係を拡張する要素であって、それと別次元で存在している社会的要素ではない。だがそれは「非リアリズム」的作品である「セカイ系」に「リアリズム」の要素を偽装させるだけの価値は十分に存在する。『サマーウォーズ』における「家族」はリアリズムの偽装でもあるのだ。

このことはエポックメイキング的な事象として位置づけることも可能だろう。「セカイ系」的作品の典型である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』『涼宮ハルヒの消失』は、たとえオタク的コミュニティ、言い換えれば「セカイ系」的物語を違和感なく受容できる世代で話題となってヒットを飛ばしたとしても、それが家族連れや中高年層にまで波及するとは考えにくい。

ネット上ではいかにも『ヱヴァ:破』が話題になっているように感じられるし、実際ヒットも飛ばしている。ただそれは、ほぼそうしたコミュニティ内での閉じた現象であって、普段ジブリ映画を観に行くような層が『ヱヴァ:破』や『ハルヒ』をわざわざ見に行くことはほとんどないと言っていい。だが、『サマーウォーズ』はそうした層が見に行ったとしても違和感がないし、伝え聞くところによれば劇場では親子連れやサラリーマンの姿も多かったという。

余談だが、ある種の物語的偽装は宮崎駿作品でも行われており、特に『崖の上のポニョ』(2008年)に顕著である。『崖の上のポニョ』はその実、「死」≒「あっちの世界へ行ったまま帰ってこない」という非常にダークなテーマを内包しながら、表面的にはほのぼのとした家族で楽しめる絵本的世界を描いた映画として提示されている。商業ベース作品を志向する場合、広く受容させにくいテーマを特定のファクターを用いて偽装することは監督の作家性を十分に発揮させる上で有効な手法であり、決して唾棄されるべき手法ではない。むしろ作品に新たな深みを与えることすら可能である。


▼『サマーウォーズ』は本当に共同体的価値観を称揚した作品か

ところで、『サマーウォーズ』は、一般的には「家族」をテーマとし、「ネット上の危機を家族の力で解決することで家族やコミュニケーションの大切さを再認識させる」映画としてメディアでは紹介され、そのように受容されることで一般的に消費可能な映画として成立している。だが、果たして『サマーウォーズ』は無批判に「家族」という共同体価値観を称揚する作品として位置付けてしまってもいいのだろうか。

むしろ『サマーウォーズ』は「家族」の崩壊、共同体的価値観の限界を提示した作品として見ることも可能ではないか。前に述べたように、「OZ=電脳世界」と「家族」との間には明確な対立軸が存在している。それは「OZ」のアバターに象徴されるような、「OZ」と個人との間における一対一の対応関係である。そうすることで「電脳世界の危機」を「旧家の大家族」が解決するというある種荒唐無稽なテーマを違和感なく物語内で消化することが可能になっているのだ。

物語内では重要人物である大おばあちゃんの死が描かれる。だが、大おばあちゃんに対応するファクターは存在しない。「OZ」のアバターも描かれていない。大おばあちゃんの対立軸または対応関係はラストまでついぞ登場することなく終わりを迎えるのだ。「世界の危機」は大おばあちゃんの死を契機として「家族の危機」に収斂していく。このことはクライマックスで、原子力発電所への墜落を逃れた人工衛星が陣内家に衝突する危機に見舞われるシークエンスを見れば明らかである。もちろんそれは「世界の危機」から「家族の危機」への物語的転換である。

そう考えると、ラストシーンは不気味にも思えてくる。夏希たちが大おばあちゃんの誕生を祝う歌を披露するのは当然前半のシーンの物語的回収ではあるが、大おばあちゃんが亡くなっていることを感じさせないほのぼのとしたラストシーンは、穿った見方をすれば少々奇妙にも見える。「旧家の大家族の当主」である大おばあちゃんは既に存在しない。それを象徴するような大邸宅も半壊してしまった(後半の随所で大邸宅を壊すような描写がなされているのも興味深い)。ラストで示される笑顔の大おばあちゃんの笑顔の遺影と朝顔のショットはいかにもジブリ的な表象で美しく、私も胸が熱くなるような感動を覚えたが、一方では「家族」の崩壊とその限界をアイロニカルに提示していると見ることもできる。

不況下では往々にして社会は保守化するもので、やれ家族だの共同体だのといった旧来の価値観が称揚される傾向にある。そしてバーチャル・リアリティやインターネット、個人といった価値観は矮小化されていく。私はそうした風潮はナンセンスだし危険なことであると思う。

それはともかくとして、『サマーウォーズ』を、単に「家族の大切さを描いた」共同体的価値観を無批判に称揚する作品として規定することは難しい。それは『サマーウォーズ』の「セカイ系」的傾向を見るとそう思えてならないのだ。

物語的には「セカイ系」的ファクターである「電脳世界=OZ」との対立概念として「家族」を置くことが極めて有機的に機能しており、それは『サマーウォーズ』の「セカイ系」的世界における擬似的中間項として機能している。そして「セカイ系」はある意味では個人主義に根ざしており、共同体的価値観とは根本的に相容れないものである。

そう、結局のところ最後に勝利したのは健二と夏希、すなわち「きみ」と「ぼく」なのだ。


▼「セカイ系」を拡張した『サマーウォーズ』
『サマーウォーズ』
「純セカイ系」的作品(例:『エヴァ』)を志向する人には「家族」の要素が蛇足に感じられてどっちつかずな作品に見えただろうし、この映画に「脱セカイ系」的物語(例:ジブリ映画)を期待した人にとっては、「世界の危機」が閉ざされた人間関係内で解決されてしまったことを残念に思うだろう。そうした意味で「家族」は「きみ」と「ぼく」とほぼ同義にすぎないファクターとなる。

そこで私は『サマーウォーズ』を「セカイ系」の拡張に成功した作品として高く評価する。この意味で、「家族」を擬似的中間項として導入するという「リアリズムの偽装」は、「セカイ系」の概念を拡張するにあたって重要な要素となる。そして『サマーウォーズ』は、今まで(「きみ」と「ぼく」の関係性に似た)閉ざされたコミュニティ内でしか受容されなかった「セカイ系」作品を、ごく一般的なコミュニティにまで受容の層を拡張したことに大きな意義があるのではないか。

ネット上では、『サマーウォーズ』は面白いけれど残念な作品であるとの見方が多かったので、この映画をどのように評価しようと考えたとき、こうした見解に至った。『サマーウォーズ』を見終わったときに感じた、自分で言うのも野暮だが素直な感動を大切にしたかったからだ。

したがって、『サマーウォーズ』はその受容層の「脱・セカイ系」化することに成功したエポックメイキング的な「セカイ系」映画に位置づけられると考える。それは最初に述べたように『サマーウォーズ』が娯楽作品として十二分な強度を持っているからこそ商業ベース作品として成功したともいえる。このことを「ネオ・セカイ系」などと言ってしまうのは誇大宣伝かもしれないけれど、まあこういう見方もあるよってことで終わりにしておこう。

via:
大変参考になりました;
映画『サマーウォーズ』はセカイ系 - 反批評的考察 β 様

Comments: 1

つつじ URL 2013-01-26 Sat 11:59:50

はじめまして。
セカイ系作品が好きな僕にとって大変参考になりました!
他のセカイ系作品(エヴァとか)と比べても、「家族」というSWのアイデンティティーは魅力的です。
ただ、SWが『きみとぼく系』って言われると「う~ん?」ってなっちゃいます^_^; ケンジと夏希先輩の関係がそんなに重要ですかね・・・f^_^; ラブマシーンを倒したのはまぎれもなく家族全員ですし、おばあちゃんの力で家族(+旧友?)が一丸となって戦ったのは『きみとぼく』の崩壊だと思われます。結局2人だけじゃ世界救えないじゃん!と。多分。
  と、この文章を読んで感じた事をコメントさせていただきます。ありがとうございました。

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