青い空はポケットの中に - 押井守監督とともに語る新作『スカイ・クロラ』のためのシンポジウム@早稲田大学大隈講堂&『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』感想メモ

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押井守監督とともに語る新作『スカイ・クロラ』のためのシンポジウム@早稲田大学大隈講堂&『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』感想メモ

7月22日(火)、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)、『機動警察パトレイバー』(1989年,1993年)、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)、『アヴァロン』(2001年)、『イノセンス』(2004年) などの作品で知られる、映画監督の押井守氏が早稲田大学にやって来るということで、大隈講堂で行われたシンポジウムに参加してきました。

この企画は「押井守監督とともに語る新作『スカイ・クロラ』のためのシンポジウム」と題され、大隈講堂にて15時から行われました。私は事前に整理券を取得した上でかなり早めに会場に到着したのですが、会場の中に入った時はすでに座席の半分くらいが埋まっているという盛況ぶりでした。私は真ん中あたりの席に腰を落ち着けました。会場周辺では生協がテントを張って書籍やグッズを売っていたり、マスコミの取材陣もちらほらと見かけました。

シンポジウムの冒頭は、8月2日に公開予定の新作『スカイ・クロラ』のダイジェスト版が6分間ほど放映され、その後、教授3名と押井監督が登壇となりました。押井監督が登場すると会場からは大きな拍手が沸き起こりました。押井監督の姿は、7月3日(木)に「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出演した時にテレビでまじまじと見たのですが、独特の雰囲気(オーラ)がある人という印象を受けました。今回は遠目でしか見えませんでしたが、独特のオーラがある人という印象は変わりませんでした。

各教授と押井監督の簡単な紹介があった後、押井監督が話し始めました。シンポジウムといってもかしこまったものではなく、各教授が持論を展開した上で押井監督に長々と質問し、それに押井監督がまた長々と答えるという形式のものです。質疑応答型の講演会と言った方が適切かもしれません。話の内容は、新作『スカイ・クロラ』に関するものが中心で、その中で押井監督の持論が展開されました。

押井ファンには周知の事実らしいのですが、押井監督の話し方はボソボソとしていて聞き取りにくく、私は一言一句聞き逃すまいと聞き耳立てていたのですが、重要な部分で何を言っているか聞き取れないという事態が何度かありました。話す内容も独特で、各教授の質問自体も長々としているのですが、それに答える押井監督も長々と話し、本当に質問に答えているのかどうか分からない、しかし話の内容は非常に興味深く、それでいて最後にはしっかり結論を出すという独特な流れを湛えていました。そうお堅いことを話をしていたわけでもなく、頻繁に会場から笑い声が聞こえるほどユーモアも交えつつ、たびたび話を脱線させているように感じました。

以下、押井監督が話した内容を記憶の限り、聞き取れた範囲内で書き起こしてみます。

・『スカイ・クロラ』では恋愛模様も描かれるが、それは押井監督の実体験とは一切関係ない。今の日本映画は、「恋愛映画」と「恋愛をモチーフにした青春映画」との区別がついていないことが問題である。それらを区別でき、なおかつ「恋愛映画」を撮れるのはフランソワ・トリュフォー、今村昌平、行定勲、押井守(自画自賛?)くらいしかいない。「恋愛映画」とは、恋愛という行為を一部切り取って映像化することであり、全ては決して描けない。恋愛は破綻と必ずワンセットである。破綻させないために、人類は「結婚」という制度を発明した。しかし、「結婚」した時点で「恋愛」は終焉する。『スカイ・クロラ』は、「戦闘機映画」としてよりも「恋愛映画」として後世に伝われば本望である。『スカイ・クロラ』で描いている「恋愛」とは、恋に落ちる過程ではなく、既に恋に落ちていたことを思い出す過程である。そういう恋愛映画は過去に見たことがない。それは自分の発明だと自負している。

・押井監督の映画製作においては「世界観」の構築が何よりも重要であり、まずそこからスタートする。その一環として『スカイ・クロラ』の舞台はアイルランドを参考にした。アイルランドへは過去に2回赴いている。1回目は宮崎駿監督と一緒だった。宮崎監督(押井監督は「宮さん」と呼ぶ)は当時『天空の城 ラピュタ』の大ヒットで大儲けしていたので、貧乏監督であった押井監督の旅費や土産代全てを肩代わりしてくれた(笑い話風に)。宮崎監督もアイルランドには大変感銘を受け、彼自身も『天空の城 ラピュタ』ではイギリスの炭鉱町を、『ルパン三世 カリオストロの城』ではイタリアの山岳都市を参考にするなど「世界観」の構築に外国の風景を参考にしている。アイルランドは東京に比べ、体感で3~5倍の時間が流れている。東京も都市によって時間の流れは違う。そのことに気付いたのが『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を製作している時だった。もちろん、物理的に計測可能な単位としての「時間」はいかなる場所においても同一であるが、世界の様々な地域によって、流れている時間は違う。それを映画に表現することが、「時間の表現者」たる映画監督としての使命である。

・『スカイ・クロラ』の劇中で登場人物は、「死」を目前に控える中で「生」の充足を得ている。そうした意味で人間の生きる原動力は「情熱」にあると考えている。その「情熱」を「犬」や「人形」に求めていたのが『イノセンス』である。しかし、『スカイ・クロラ』を製作する中で人間は他の「人間」のために生きる原動力=情熱を得ているのだと思うようになった。最愛の犬が死んだことも理由のひとつである。『スカイ・クロラ』の中で「キルドレ」たちは、「地上」で生きることを宿命づけられている。「生」も「死」も「地上」にしか存在しない。なぜなら彼らの生活場所は「地上」であると同時に、撃墜されて死んだことが定義されるのもまた「地上」であるからである。彼らは「空」で戦うことを宿命づけられているように見えるかも知れないが、「空」には「生」も「死」も「時間」も存在しない。ゆえに彼らの「情熱」は、むしろ「空」に存在する。また、『スカイ・クロラ』における「犬」は「地上」の象徴、メタファーとして描いている。

・現在の日本映画は、まずキャスティングから企画を開始する。しかし、本来の映画製作のプロセスからすればそれは大変いびつなことである。ゆえに大作の実写映画の撮影は非常に困難である。なぜなら、キャスティングから開始する今の日本映画の現状では、芸能事務所(特に「ジャ」のつく芸能事務所を名指しで批判)の意向によって脚本を変えざるを得なくなるし、スケジュールも大変いびつなものになるからだ。そのような状況下では満足できる作品作りはなかなか難しい。したがって、『立喰師列伝』をはじめ押井監督の実写映画は百万円単位の低予算で製作されているものばかりである。しかし、アニメーションならまだ大作を製作できる可能性が残されている。だから押井監督はこれからもアニメーション映画を作り続けるという。

・主役級の声優に俳優を起用したのは、日テレやワーナー・ブラザーズからの要請があったからということと、押井監督自身の意図もあった。その意図は、(『スカイ・クロラ』において重要な役割を担う)「キルドレ」という「思春期の姿のまま永遠に大人にならない子どもたち」の異質性を強調すること。(芸能人=非職業声優を主役級の声優に起用したことに批判があるかもしれないが)決して日テレやワーナーに魂を売ったわけではない。彼らに説得はされたが最終決定権はあくまで監督に委ねられた。ちなみに、栗山千明は押井監督自身が個人的に好きだから起用した。

・映画、特にアニメーション映画の製作においては「マテリアル」を使いこなすことが大事である。アニメーションには「セル=動画」、「背景」、最近は「CG」の3つのマテリアルが存在する。アニメーションは背景と動画が重層的に重なり合った特殊な表現形態である。実写は役者の特権性を無視すれば、単一的なマテリアルしかない。ゆえにアニメーションは極めて記号的な表現形態であり、(森博嗣氏による原作小説を引き合いに出して)それは文学(=文字)に近い。アニメーションは記号表現の一種であり、記号度(=抽象度)でいえば、記号表現の極致である文学(=文字)と、実写との中間に位置する。そもそも「映画」という表現形態自体が記号的であり、そうした意味で実写映画もまた記号的である。例えば、「世界一の美女」という表現を、文学(=文字)ならばそれだけで定義できるし、文字でそう規定されている以上誰も反論できない。アニメーションも表現次第で「世界一の美女」を定義できるが、実写にはそれができない。どんな名女優でも、「世界一の美女」という役柄だけは決して演じることができないのである。誰かに反論されたらそれで終わりなのだから。したがって、『スカイ・クロラ』はアニメーションでは表現可能であるが実写では表現不可能である。なぜなら永遠に大人になることができない「キルドレ」という存在を、役者は定義できないからである。たとえ思春期の役者が「キルドレ」を演じたとしても、画面の奥からその役者自身の人生(背景)が滲み出てきてしまい、「キルドレ」になりきることはできない。また、アニメーションの新たな可能性としてCGには注目しているが、フルCGの3Dアニメーションには興味がないし、まだそういう作品を製作できる段階ではない。

・(学生から「キルドレ」たちがタバコを吸うことの意図を問われ)押井監督はへヴィー・スモーカーである。タバコを吸うということは、何もしていない時間に意味を与えるという、人間だけに許された特権である。タバコを吸う理由は、ただ単にニコチンを吸収するためだけではなく、人間は何もしない時間を作らないと生きていけないからである。タバコをやめる気はないし、煙草の吸いすぎで肺ガンになりやすいという説も全く信じていない。それと、単純に煙を吐くのが好きだからという理由もある。

・竹中直人は好きな俳優であるが、普段は押井監督と何の接点もない。今回の『スカイ・クロラ』で彼は2、3の台詞をあてただけである。しかし、彼には多くの押井作品に出演してもらっている。それは、兵藤まこや榊原良子といった押井作品御用達のキャストと同じく、「映画の外部」としての役割を担ってもらっているためである。「映画の内部」とは、主役級のキャストのことである。映画は「内部」と「外部」とがあって初めて「映画」として成立する。「外部」には観客も含まれ、「外部」の役割を演じるキャストは観客との懸け橋のような意味合いを持つ。

・無類の犬好きで知られる押井監督だが、多くの犬を映画に登場させたいと思っても、それも困難になってきた。犬を描けるアニメーターが皆40歳を超え、そろそろ描いてくれなくなるであろうことが予想されるためである。押井監督が好きなバセットバウンドを描けるアニメーターは日本で3人しかいない。今回はそのうちの2人に断られた。その一人も1日2~3時間しか仕事をしてくれない。押井監督は現状のアニメ―ターの技術レベルに不満を持っており、彼の要求レベルを満たすアニメーターが軒並み高齢化していることに危惧を抱いている。押井監督は現在のテレビアニメのクオリティでアニメーション映画を製作する気は全くないとのこと。また、実写映画はテレビドラマの拡大版であってはならないし、アニメーション映画はテレビアニメの拡大版であってはならない。

こんな感じです。聞き取りにくかった部分もあるし、自分で勝手に補足した部分やニュアンスの違いもあるかもしれませんが、参考にしていただければ幸いです。あとは、『スカイ・クロラ』に登場する戦闘機の意匠を男根になぞらえて下ネタを展開していたりもしましたが、その辺は割愛します(笑)。

私自身、幼少時から映画ドラえもんと宮崎駿作品のファンではありましたが、とりわけ押井作品のファンだったわけでも、以前から押井監督に興味を抱いていたわけでもありません。しかし、最近アニメーションの制作というものに強い興味を抱くようになり、その一環として押井作品を見始めるようになりました。およそ昨年末からのことでしょうか。

『イノセンス』(2004年)の頃からなんとなく名前は見聞きしていましたが、『イノセンス』が大変難解な作品であるという評判だっただけに、彼に対して「通好みの難解な作品を作っている」というような印象を抱き、決して彼に対する印象は良いものではありませんでした。実写においては、私の北野武監督の評価に近いものがあります。実際、海外での評価と日本での人気、学者・評論家受けする作家性(北野監督は芸大大学院教授に就任し、押井監督は学者がこぞって研究対象にし、多くの大学に呼ばれている)などにおいて、北野監督と押井監督の立ち位置は似ているといえます。しかし、北野監督も『座頭市』(2003年)で大衆的な人気を獲得しています。果たして、『スカイ・クロラ』ではどうなるのでしょうか。

現在では、押井作品のDVDを7本、関連書籍を複数所有し、彼の発言や作家性のかなりの部分に共感するようになったので、私は押井守ファンであると言えると思います。

しかし、『イノセンス』の頃に抱いた私の印象は半分正しいともいえます。彼の作品の特徴としては、衒学的な引用を駆使した長台詞と長回し、実写的なレイアウトの要素を取り入れた映像表現などが挙げられます。押井監督自身はジャン=リュック・ゴダールと『ブレードランナー』に多大な影響を受けているとのことですが、彼の作品を見るとそれが良く分かります。

先日、新宿ミラノに『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』を見に行ってきました。この作品の基となった『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)については多方面で論じられているでしょうから、それに対する論評はひとまず置いておくとして、先述したゴダールと『ブレードランナー』との関連性について、大学で映画をかじり始めた程度の生半可な知識で考えてみます。

ゴダールについては、衒学的(本来悪い意味で使われる言葉ですが、ここでは良い意味にも悪い意味にも受け取れるというニュアンスで用いています)な引用を駆使し、哲学的な長台詞を取り入れることにその影響が見て取れます。『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』では、主人公の草薙素子と相棒のバトーが生命や自我に対する引用を用いた禅問答をするシーンがあります。ゴダールの代表作で、引用のオンパレードである『気狂いピエロ』(1966年)はもとより、『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1966年)『勝手にしやがれ』(1959年)をはじめとして、登場人物が突如として哲学的で難解な台詞を吐くシーンが彼の作品には散見されます。これがいわゆる「映画通」の触手に触れることで、ゴダールが映画史の中で一定どころか特権的な地位を占めているのだと思われます。ゴダールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちにも同じことが言えますが、彼の引用全てが正しいわけではなく、ことSF的な自然科学を典拠とした引用に対しては、後年その間違いが指摘されています。ヌーヴェル・ヴァーグの映画監督たちは総じてSF作品を嫌うか、または苦手としており、そのことに関しては押井監督と対照的であるといえるでしょう。例えば、恋愛映画の旗手であるフランソワ・トリュフォーに至っては、「『宇宙もの』とか機械やロボットの出てくるものには生理的な嫌悪感をおぼえる」と公言するほどのSF嫌いであることが知られており、ゴダールの『アルファヴィル』(1965年)やトリュフォーの『華氏451』(1966年)は(低予算という製作上の都合もあるものの)ジャンル上ではSF映画とされていますが、あくまでそれは観念的なものであって、意匠としての「SF的な」イメージは全くと言っていいほど登場しません。『アルファヴィル』の低予算ぶりは徹底しており、あくまで劇中で世界観の設定が説明されることのみによって「SFとしての」作品が成立しています。それはまるで「私がSFと言ったんだからこれはSFなんだ」とでも言いたげです。『華氏451』では、パリのモノレールを止めるくらいの予算的余裕はあったようですが・・・。

『ブレードランナー』(リドリー・スコット,1982年)については、SF映画の金字塔として熱狂的なファンの多い作品ですし、多くを語るまでもありませんが、ただ一つ言及しておくとすれば、『ブレードランナー』以後のSF映画における都市表象における方向性を決定づけた手法として、上海や香港、あるいは東京などに代表されるアジア的で猥雑なネオン街を、近未来のロサンゼルスのイメージとして導入したことです。このイメージは『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』や『イノセンス』においても頻繁に登場します。むしろ徹底されていると言ってもいいかもしれません。舞台は近未来の日本(士郎正宗氏による原作では「新浜県 海上都市 ニューポートシティ」と表記)ですが、何故かそのイメージは上海や香港を想起させるような猥雑なネオン街、あるいは中国語の看板でひしめき合い、ボートが行き交う水路に挟まれた市場で埋め尽くされています。ちなみに、原作漫画ではそうした表現は登場しません。映画館で購入したパンフレット(95年公開版パンフレットの復刻版付きとはいえ1500円は高すぎ!)には、「日本のアニメ/マンガ界は『ブレードランナー』への負債を完済したと見てよい」と書かれていますが、私にはどうもそうは思えません。『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』だけでなく『イノセンス』(しかも『イノセンス』では冒頭から登場している)に登場する近未来都市のイメージは、明らかに『ブレードランナー』のそれにおけるイメージの再生産、すなわち複製に見えるからです。押井監督は、「すべての表現行為は模倣から始まる」と述べているように、模倣を批判したいわけではありません。私には『ブレードランナー』の負債を完済したというよりは、それ自体が模倣先に対する敬意によって成立する「パロディ」の産物であると率直に思っただけです。もちろん、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』における独特な映像表現はアニメーションだからこそ可能な表現であり、実写である『ブレードランナー』にはできなかったことですし、エポック・メイキング的な都市表象だけで『ブレードランナー』の優位性を殊更に強調したいわけでもありません。

また、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』自体が『ブレードランナー』という現象の影響下に成立していることも付け加えておかなければなりません。元来押井監督はリメイクを否定し、DVDなどの映像ソフトにおいても「ディレクターズ・カット」などの再編集を施すことはありませんでした。「ディレクターズ・カット」は、それ自体が巨大なビジネスであり、投資でもあるハリウッド映画の制約下で製作された映画が、必ずしも監督の意向通りにならないことにによる産物だと言えます。『ブレードランナー』では特にそれが顕著で、「最終版」「ファイナル・カット」と呼ばれる再編集が施されるたびに再公開され、DVDも乱発されました。そのことで「最終版」が出た10年後に「ファイナル・カット」がリリースされるという奇妙な事態を生み、一体どれが『ブレードランナー』の決定版なのか分からなくなるくらい、『ブレードランナー』は拡大再生産され続けていますし、それはファンの反感を買うことも往々にしてあります。私は未だに『ブレードランナー』のDVD(またはBlu-ray)の購入に踏み切れずにいます。『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』は、押井監督初のリメイクであり、『ブレードランナー』の拡大再生産という現象を前にした心境の変化とも捉えることができると思います。

しかしながら、押井守監督は現在の日本のアニメーション界において稀有な人物であることには間違いありません。これからは、宮崎駿監督のように世界的評価と世間的人気を両立させられるかがポイントになってくるような気がします。『スカイ・クロラ』は、押井監督自身「若者に向けて作ったエンターテインメント作品」と述べているように、押井作品では最もメジャー志向の作品と言えそうです。また、「笑っていいとも!」に出演したり、テレビ局や大学を行脚している姿は、かつての押井監督の姿からは想像できないとも聞きます。『イノセンス』はスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーの指揮下で大々的なプロモーションを行ったにも関わらず、難解なイメージが仇となり興行成績は今一つだったようです。今回の『スカイ・クロラ』は、やはり日テレの指揮下で大々的なプロモーション活動をしているので、宮崎駿監督の最新作『崖の上のポニョ』との直接対決という状況下でどれくらい人気を獲得できるかが注目されます。

私自身とても影響されやすい性格ですので、ここ数ヶ月で押井作品には多大な影響を受けていますし、アニメーションの制作に再び興味を抱いたきっかけでもあるので、今回の押井監督の話は私の今後の身の振り方にも参考になる大変意義深い講演でした。

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