青い空はポケットの中に - 2009年10月

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映画『サマーウォーズ』のセカイ系的考察

見ようと思いつつ時間が過ぎてしまった『サマーウォーズ』をようやく見ることができた。『時をかける少女』(2006年)で各方面から高い評価を獲得した細田守監督の最新作だ。劇場は吉祥寺バウスシアターで11:35の回。さすがに平日の午前中では客は学生3人とまばらだった。バウスシアターは近所だし好きな映画館なんだけど、さすがにこの時期では最も小規模なシアターで、スクリーンや音がもう少し大きければ申し分なかった。

見終わった後、多くの人と感想を共有したいという欲求を励起される映画だと思った。できれば誰かと見に行って、その人と感想を語れれば良かったかもしれない。きっとこの映画は、見た人によって感想が180度変わる可能性を秘めていると思う。なので『サマーウォーズ』を見に行かれた方は少しでいいので感想を教えてもらえると嬉しい。

動画・背景・CGは画面上に違和感なく溶け込んでおり、「OZ」の無機質でポップな世界と長野県の旧家というミスマッチな世界観も、どちら一方が浮くことなく物語にマッチさせることに成功している。朝顔の見せ方や泣き顔の描き方、大おばあちゃんと幼少時の侘助が畦道を歩くシーンの美しさなどはいかにもジブリ的な演出であり、細田監督がジブリの系譜に連なる人物であることを示唆している。

声の出演はほぼ職業声優ではなく、俳優や子役がキャスティングされている。私は基本的にアニメーション映画で職業声優を軽視したキャスティングは嫌いだが、『サマーウォーズ』ではむしろ素人臭い演技が好感につながった。主演の神木さんや桜庭さんは結構いい味出してたんじゃないかと思う。



▼セカイ系と『サマーウォーズ』
予告編を目にしたときから何となく、『サマーウォーズ』「セカイ系」ではないだろうかという思いを抱いていた。「セカイ系」とは、およそ「『きみ』と『ぼく』との間の閉じた関係性が、何ら具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』と直結している」ストーリーの特徴をもった作品群のことを指すといわれている。勿論明確な定義があるわけではなく、論者によって様々な定義が提唱されている。

代表的作品として『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明)『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)『ほしのこえ』(新海誠)がよく挙げられている。そのルーツは『エヴァ』にあるとする人もいれば、ライトノベルの諸作品を挙げる人もおり、更には村上春樹作品の影響を指摘する人もいる。

大抵の場合において「きみ」は物語のヒロインであり、特殊な能力を与えられていたり、非人間的存在だったり、世界の危機と直接対峙する存在だったりする。対して「ぼく」は物語の主人公かつ一人称視点で、およそ平凡な人物として描かれており、「きみ」に翻弄されたり相互に影響し合いながら「きみ」との関係を深化させていく、といった構図で往々にして語られる。

「セカイ系」という用語はやや批判的な文脈で使われることが多いようだ。その「セカイ系」の受容を世代論で区切ってしまうのはいささか横暴だが、多分こうした作品群を受け入れられない世代は存在するのではないか。つまり、「セカイ系」的物語の受容には一種の世代間断絶が存在する。単刀直入に言ってしまえば、『エヴァ』を楽しめたかどうかが境目なのかな、と。

ある意味、「セカイ系」は個人主義の産物ということもできるだろう。「世界の危機」は「きみ」と「ぼく」というごく個人的な関係内で完結している。家制度や大家族、地縁共同体といった価値観はとうの昔に崩壊するか希薄化しており、それに伴って発生した核家族や一人っ子などのごく個人的な人間関係のみで育ってきた世代が「セカイ系」的作品の担い手となっている面は指摘できるだろう。細田監督も一人っ子だというし、「セカイ系」の担い手または受容層に一定のジェネレーション・ギャップが存在することにはある程度の説得力があると考える。

そして、結論と言えるかは微妙だが、「『サマーウォーズ』は「セカイ系」の応用型である」との認識に至った。

以下、ネタバレを含みつつ、卒論のネタ探しのつもりで思いついたことを取り留めもなくメモ書きしていくので未見の方はご注意ください。勢いで書いたのできっと間違いや勘違いもあると思うけどその辺はご容赦を。



▼娯楽映画としての『サマーウォーズ』

あらすじは公式サイト等で確認してほしいが、物語は非常にオーソドックスかつ娯楽作品としては典型的である。脚本面では、必要な情報は過不足なく観客に提示され、あらゆるファクターは伏線として回収されるし、すべてのキャラクターには物語的救済が与えられる。演出面では、青春と恋愛的要素の導入、ひと夏の冒険/成長、重要人物の死、(活劇的な)カウントダウンなど、娯楽映画に典型的な要素がこれでもかと詰め込まれている。すなわち、カタルシスを得るのには十分であって消化不良や後味の悪さを感じることはない。脚本の奥寺佐渡子氏が「本当の娯楽映画を目指したい」(公式パンフレット)と述べているように、「娯楽映画」としての強度は十二分に高いのだ。



▼なぜ『サマーウォーズ』は「セカイ系」なのか
『サマーウォーズ』
は主人公である健二が憧れの先輩である夏希に頼まれ、夏希の彼氏(フィアンセ)に偽装して長野県上田市にある彼女の実家へ赴くところから始まる。そして物語は基本的に「きみ」(夏希=ヒロイン)「ぼく」(健二=主人公)との関係を軸に進んでいく。

そこへほとんど唐突に、電脳世界のSNS「OZ(オズ)」のハッキングを契機とした「世界の危機」が訪れる。そして最終的には、具体的(より正確にいえば社会的)な中間項を挟むことなく、健二と夏希によって「世界の危機」は解決される。

物語の要素を抽出してみれば、『サマーウォーズ』には多分に「セカイ系」的要素が含まれており、基本的に「セカイ系」作品として規定してしまってもよさそうだ。だが、『サマーウォーズ』が従来の「セカイ系」作品と決定的に異なるのは、「家族」を重要なファクターとして対置させたことである。物語における「家族」は「OZ」の対立概念であると考えられ、【「きみ」と「ぼく」】と【「世界の危機」】との間に介入する擬似的中間項でもある。『サマーウォーズ』における「家族」の役割については後で述べることにする。

さて、『サマーウォーズ』の「セカイ系」的性質を規定している最大の要素は間違いなく「OZ」である。「OZ」は個人と世界を直接的に接続する概念装置であり、「OZ」を媒介に、主人公とヒロインあるいは家族は直接「世界の危機」と対峙することが可能になっているからである。「OZ」のハッキング首謀者であり、かつ「世界の危機」をもたらしたAI「ラブマシーン」は、健二と夏希、あるいはカズマ侘助といった大家族の一員と「OZ」を媒介に直接リンクしており、彼らの働きかけに対して「ラブマシーン」は逐一応じていることからも「OZ」の「セカイ系」的性質が窺えよう。

「OZ」の対立概念としての「家族」の世界は主に前半に描かれる。「OZ」の危機に際して大おばあちゃんが知己や有力者に片端から電話をかけるシーンが象徴的だ。ここではあくまで「OZ」に対する「家族」、すなわち共同体的価値観の優位性が示される。そして大おばあちゃんの死によって、後半の物語世界は「セカイ系」的世界である「OZ」へと移行していく、というのが一般的な見方だろう。

その見方はもちろん正しいが、ただ私は【前半=家族】、【後半=OZ】という単純な図式であるとは必ずしも思えず、基本的に物語は一貫して「セカイ系」的世界を描いており、そこに「家族」が介入していく、といった構図の方が近いのではないかと感じた。

そして『サマーウォーズ』の「セカイ系」的な最大の見せ場は、「OZ」内で夏希のアバターが「ラブマシーン」と花札で勝負する場面だろう。物語前半に家族とのコミュニケーションの場で用いられた花札を伏線としてクライマックスに持ってくる演出も見事だが、「世界の危機」が、いち女子高生の花札によって解決されるという構図は実に「セカイ系」的である。そして世界中のアバターが、何ら具体的中間項として機能することなく皆一様に夏希のアバターに力を貸し、やがてはひとつに融合することで、夏希のアバターは翼をもった巨大な姿に変身するのである。

この特撮ヒーロー的な、あるいは美少女戦士的なイメージを参照した大掛かりな演出はある意味では荒唐無稽にも見える。だが、私はこのシーンで最も物語に没入したし、最も感動できたのである。つまり私は「セカイ系」を違和感なく受け入れられる世代ということになる。個人的には夏希の「こいこい!」のぶっきらぼうな言い方が気に入った。だが、そうでない人にとってはこうしたシーンはお笑い草でしかないのだろう。

重要なのはヒロインが「世界の危機」と直接対峙することであって、それは「セカイ系」作品の必須要件といってもよいだろう。

「セカイ系」は「きみ」と「ぼく」との関係を基軸にしている以上、物語の基本は二項対立である。このことは『サマーウォーズ』でも顕著であり、物語内で「家族」のある要素は、「OZ」内の特定の要素と逐一対応している。この描写は徹底されており、そうすることで戦国時代の合戦を「OZ」内の対「ラブマシーン」戦における戦術として応用してしまうようなシーンが違和感なく物語と調和しているのではないだろうか。

〔例〕「家族」⇔「OZ」
・大家族(夏希)⇔核家族(健二)
・個人⇔アバター
・戦国時代の合戦⇔対「ラブマシーン」戦
・家族の危機⇔世界の危機
・高校野球⇔「OZ」内部での戦い
・カズマと少林寺拳法⇔キング・カズマ(格闘ゲームチャンピオン)
・健二と夏希の恋(?)⇔侘助と夏希の初恋←※一種の代理戦争
・etc...


▼「セカイ系」的物語における擬似的中間項としての「家族」

「セカイ系」
的切り口で『サマーウォーズ』の物語を図式化してみると以下のようになる。

〔A〕「きみ」(夏希=ヒロイン)と「ぼく」(健二=主人公)の出会い
          ↓
〔B〕【閉じた人間関係が「家族」に拡張】:擬似的中間項
          ↓
〔C〕OZの暴走をきっかけとした「世界の危機」の発生
          ↓
〔B'〕【「世界の危機」は「家族の危機」に収斂】:擬似的中間項
          ↓
〔C'〕最終的に「きみ」と「ぼく」との間で「世界の危機」を解決
          ↓
〔A'〕「きみ」と「ぼく」との関係の成立(キス=恋愛の成就)

すなわち、「きみ」と「ぼく」という閉じた関係性を「家族」に拡張させ、「世界の危機」「家族の危機」に収斂させていくことによって、「セカイ系」の物語を「セカイ系」のまま拡大再生産することに成功しているといえるだろう。

この「家族」の存在は、「セカイ系」的物語における擬似的中間項の役割を果たすとともに、「セカイ系」的物語の受容における緩衝材の役割を果たしているのではないだろうか。この記事の冒頭で、「セカイ系」的物語の受容には一種のジェネレーション・ギャップが存在するのではないかと述べたが、「家族」というファクターの存在によって、『サマーウォーズ』を、紛れもなく「セカイ系」的物語でありながらあらゆる世代に受容可能な作品として成立させてしまっているのは特筆すべきだ。

「擬似的」中間項としたのは、『サマーウォーズ』があくまで「セカイ系」として位置づけられていることを明確にするためである。「セカイ系」を持ち出すときに語られる中間項とは「社会性」のことであり、それはアニメの成立以来連綿と続く「リアリズム」の系譜でもある。具体的には主人公がある組織の一員だったり、物語に国家機関が介入したりすることであるといえよう。

しかし「家族」はあくまで「きみ」と「ぼく」との関係を拡張する要素であって、それと別次元で存在している社会的要素ではない。だがそれは「非リアリズム」的作品である「セカイ系」に「リアリズム」の要素を偽装させるだけの価値は十分に存在する。『サマーウォーズ』における「家族」はリアリズムの偽装でもあるのだ。

このことはエポックメイキング的な事象として位置づけることも可能だろう。「セカイ系」的作品の典型である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』『涼宮ハルヒの消失』は、たとえオタク的コミュニティ、言い換えれば「セカイ系」的物語を違和感なく受容できる世代で話題となってヒットを飛ばしたとしても、それが家族連れや中高年層にまで波及するとは考えにくい。

ネット上ではいかにも『ヱヴァ:破』が話題になっているように感じられるし、実際ヒットも飛ばしている。ただそれは、ほぼそうしたコミュニティ内での閉じた現象であって、普段ジブリ映画を観に行くような層が『ヱヴァ:破』や『ハルヒ』をわざわざ見に行くことはほとんどないと言っていい。だが、『サマーウォーズ』はそうした層が見に行ったとしても違和感がないし、伝え聞くところによれば劇場では親子連れやサラリーマンの姿も多かったという。

余談だが、ある種の物語的偽装は宮崎駿作品でも行われており、特に『崖の上のポニョ』(2008年)に顕著である。『崖の上のポニョ』はその実、「死」≒「あっちの世界へ行ったまま帰ってこない」という非常にダークなテーマを内包しながら、表面的にはほのぼのとした家族で楽しめる絵本的世界を描いた映画として提示されている。商業ベース作品を志向する場合、広く受容させにくいテーマを特定のファクターを用いて偽装することは監督の作家性を十分に発揮させる上で有効な手法であり、決して唾棄されるべき手法ではない。むしろ作品に新たな深みを与えることすら可能である。


▼『サマーウォーズ』は本当に共同体的価値観を称揚した作品か

ところで、『サマーウォーズ』は、一般的には「家族」をテーマとし、「ネット上の危機を家族の力で解決することで家族やコミュニケーションの大切さを再認識させる」映画としてメディアでは紹介され、そのように受容されることで一般的に消費可能な映画として成立している。だが、果たして『サマーウォーズ』は無批判に「家族」という共同体価値観を称揚する作品として位置付けてしまってもいいのだろうか。

むしろ『サマーウォーズ』は「家族」の崩壊、共同体的価値観の限界を提示した作品として見ることも可能ではないか。前に述べたように、「OZ=電脳世界」と「家族」との間には明確な対立軸が存在している。それは「OZ」のアバターに象徴されるような、「OZ」と個人との間における一対一の対応関係である。そうすることで「電脳世界の危機」を「旧家の大家族」が解決するというある種荒唐無稽なテーマを違和感なく物語内で消化することが可能になっているのだ。

物語内では重要人物である大おばあちゃんの死が描かれる。だが、大おばあちゃんに対応するファクターは存在しない。「OZ」のアバターも描かれていない。大おばあちゃんの対立軸または対応関係はラストまでついぞ登場することなく終わりを迎えるのだ。「世界の危機」は大おばあちゃんの死を契機として「家族の危機」に収斂していく。このことはクライマックスで、原子力発電所への墜落を逃れた人工衛星が陣内家に衝突する危機に見舞われるシークエンスを見れば明らかである。もちろんそれは「世界の危機」から「家族の危機」への物語的転換である。

そう考えると、ラストシーンは不気味にも思えてくる。夏希たちが大おばあちゃんの誕生を祝う歌を披露するのは当然前半のシーンの物語的回収ではあるが、大おばあちゃんが亡くなっていることを感じさせないほのぼのとしたラストシーンは、穿った見方をすれば少々奇妙にも見える。「旧家の大家族の当主」である大おばあちゃんは既に存在しない。それを象徴するような大邸宅も半壊してしまった(後半の随所で大邸宅を壊すような描写がなされているのも興味深い)。ラストで示される笑顔の大おばあちゃんの笑顔の遺影と朝顔のショットはいかにもジブリ的な表象で美しく、私も胸が熱くなるような感動を覚えたが、一方では「家族」の崩壊とその限界をアイロニカルに提示していると見ることもできる。

不況下では往々にして社会は保守化するもので、やれ家族だの共同体だのといった旧来の価値観が称揚される傾向にある。そしてバーチャル・リアリティやインターネット、個人といった価値観は矮小化されていく。私はそうした風潮はナンセンスだし危険なことであると思う。

それはともかくとして、『サマーウォーズ』を、単に「家族の大切さを描いた」共同体的価値観を無批判に称揚する作品として規定することは難しい。それは『サマーウォーズ』の「セカイ系」的傾向を見るとそう思えてならないのだ。

物語的には「セカイ系」的ファクターである「電脳世界=OZ」との対立概念として「家族」を置くことが極めて有機的に機能しており、それは『サマーウォーズ』の「セカイ系」的世界における擬似的中間項として機能している。そして「セカイ系」はある意味では個人主義に根ざしており、共同体的価値観とは根本的に相容れないものである。

そう、結局のところ最後に勝利したのは健二と夏希、すなわち「きみ」と「ぼく」なのだ。


▼「セカイ系」を拡張した『サマーウォーズ』
『サマーウォーズ』
「純セカイ系」的作品(例:『エヴァ』)を志向する人には「家族」の要素が蛇足に感じられてどっちつかずな作品に見えただろうし、この映画に「脱セカイ系」的物語(例:ジブリ映画)を期待した人にとっては、「世界の危機」が閉ざされた人間関係内で解決されてしまったことを残念に思うだろう。そうした意味で「家族」は「きみ」と「ぼく」とほぼ同義にすぎないファクターとなる。

そこで私は『サマーウォーズ』を「セカイ系」の拡張に成功した作品として高く評価する。この意味で、「家族」を擬似的中間項として導入するという「リアリズムの偽装」は、「セカイ系」の概念を拡張するにあたって重要な要素となる。そして『サマーウォーズ』は、今まで(「きみ」と「ぼく」の関係性に似た)閉ざされたコミュニティ内でしか受容されなかった「セカイ系」作品を、ごく一般的なコミュニティにまで受容の層を拡張したことに大きな意義があるのではないか。

ネット上では、『サマーウォーズ』は面白いけれど残念な作品であるとの見方が多かったので、この映画をどのように評価しようと考えたとき、こうした見解に至った。『サマーウォーズ』を見終わったときに感じた、自分で言うのも野暮だが素直な感動を大切にしたかったからだ。

したがって、『サマーウォーズ』はその受容層の「脱・セカイ系」化することに成功したエポックメイキング的な「セカイ系」映画に位置づけられると考える。それは最初に述べたように『サマーウォーズ』が娯楽作品として十二分な強度を持っているからこそ商業ベース作品として成功したともいえる。このことを「ネオ・セカイ系」などと言ってしまうのは誇大宣伝かもしれないけれど、まあこういう見方もあるよってことで終わりにしておこう。

via:
大変参考になりました;
映画『サマーウォーズ』はセカイ系 - 反批評的考察 β 様

Arctic Monkeys@日本武道館(w/ The Cribs)

ARCTIC MONKEYS <アークティック・モンキーズ>
@日本武道館
2009.10.19 (Mon)
OPEN / START:18:00 / 18:55
Special Guest:The Cribs


arctic_monkeys_2009.jpg
▲アレックス・ターナー(Vo, G):右から2番目

[Set List]
01. Dance Little Liar
02. Brianstorm
03. This House Is A Circus
04. Still Take You Home
05. The View From The Afternoon
06. Cornerstone
07. Potion Approaching
08. Pretty Visitors
09. Crying Lightning
10. Sketchead
11. I Bet You Look Good On The Dancefloor
12. Dangerous Animals
13. Secret Door
14. My Propeller
15. Red Right Hand
16. Do Me A Favor
17. Fluorescent Adolescent
18. The Jeweller's Hands
**********ENCORE**********
19. If You Were There, Beware
20. 505


自分と同世代のバンドを問われたら、私は先ずアークティック・モンキーズの名を挙げるだろう。私としても彼らのデビューからブレイクまでの狂想曲を目の当たりにしてきたわけで、今度のライブはぜひとも見ておきたかった。多分、機会があれば2007年の単独公演や夏フェスでの来日にも行けたのだろうが、色々あって今日のライブが初参加となる。気づいたら彼等はもう、ビートルズと同じステージに立つバンドに成長していた。

最新作である3rdアルバム『Humbug』をリリースし、バンド初となる満を持しての武道館公演。メンバーは私よりも1歳年上なだけなのに、デビューからわずか数年でここまで上り詰めるとは驚きだ。こっちが高校生のときには、既に同年代のバンドが大規模ロックフェスやスタジアムでプレイしていたのだから世界は広い。

今回は前座と呼ぶにはあまりにも惜しい、スペシャル・ゲストとしてザ・クリブスがオープニング・アクトを務めた。大物ギタリストであるジョニー・マー(元ザ・スミス)の電撃加入が記憶に新しいが、マー参加後初の4thアルバム『Ignore The Ignorant』を引っ提げての堂々来日だ。赤坂BLITZでの単独公演も21日に控えている。

年齢もキャリアも上のバンドが前座というのも妙な話だが、今回の起用はアークティック・モンキーズ側のたっての希望なのだという。UKインディー・ロック勢からの支持が熱い彼ららしい話である。そんなクリブス側も負けじと、直前になって開演時間を5分早めてきた。そしてライブは定刻通り18時55分ジャストに幕を開けた。

the_cribs_2009.jpg
▲ジョニー・マー(G):左から2番目

クリブスのセットリストは以下の通り。

[Set List]
01. We Were Aborted
02. Hey Scenesters!
03. I'm A Realist
04. Cheat On Me
05. We Share The Same Skies
06. Mirror Kissers
07. Men's Needs
08. City Of Bugs


とりあえず新譜を通して聴いて、後はディスコグラフィーを一聴しただけなので知らない曲もあったが、短いながらも人気曲が網羅された構成だったと思う。クリブスって初期はいかにもドタバタなインディー然としたサウンドが特徴的だったはずなのに、演奏を聴いて彼らは随分と腕を上げたばかりでなく、かなり小奇麗なサウンドになったなと。そこはやはりジョニー・マーの加入が大きいのだろう。ジャーマン3兄弟だけで長年回してきたバンドなだけに、そこに異分子とでもいうべきマーの加入がファンの間で賛否両論だったのも頷ける。

だけどジョニー・マーが好きな私としては、彼を生で見られるというだけでも金を払う価値があるというもの。今回武道館まで足を運んだ理由の何割かはジョニー・マー目当てなのは確かだ。オアシスノエル・ギャラガーもマッドチェスター勢も、皆彼に影響を受けて自らのキャリアをスタートさせたのである。みんなのギター・ヒーロー、それがジョニー・マー。

クリブスのアクトで印象的だったのは、ゲイリー(Vo, G)が「ボクタチクリブスデス!」と日本語で挨拶したばかりでなく、途中のMCで「アークティック・モンキーズヲヤッツケル」などと言い放ったのには笑ってしまった。彼なりのジョークだったのだろうが、発音が芳しくなかったのかオーディエンスにはあまりウケていなかった。なお、途中でアークティック・モンキーズのカヴァーで「Chun Li's Spinning Bird Kick」を披露していた(演奏中には気付かなかったけど)。

演奏自体は実に堅実で、もっと暴れるのかと思ってたら意外と落ち着いていた。ジョニー・マーのプレイはさすが。流麗なリフとバッキングに、高音弦のキラキラしたサウンドが彼の持ち味。演奏中は終始マーを注視していたが、遠目にはメンバーに完全に溶け込んでいた気がする。クリブスの3兄弟とは約20歳も歳が離れているはずなのに非常に若々しく見えた。彼はフェンダーのジャズマス(ジャガーかも?)にフェンダー・ツインリバーブの構成を崩さず終始クールなプレイに徹しており、何曲かコーラスも担当していた。

ignore_the_ignorant.jpg
クリブスの4thは今までのクリブスらしさを保ちつつ、ジョニー・マー節炸裂の流麗なサウンドに変貌しているので是非チェックしてみて欲しい。私はクリブスの4thが凄く気に入ったんだけど、確かに以前のようなドタバタした感じは失われている気もするし、古参のファンにはどう映ったのだろうか。ただ、特に#11「Victim Of Mass Production」なんてスミスっぽいキラキラしたサウンドで個人的にはお勧め。

彼らの演奏は30分程で19時27分に終了。転換もスムーズに進み19時50分に舞台が暗転、いよいよアークティック・モンキーズの登場である。

彼らの音楽性から予想していた通り、前半はもみくちゃにされまくった。1曲目は3rdから「Dance Little Liar」。そして多分、盛り上がりの最高潮は2曲目の「Brianstorm」だったに違いない。鋭角なギターリフと攻撃的なカッティングで疾走するアークティック・モンキーズを象徴するような曲だ。歌詞は日本人にインスパイアされたらしい。私はこの曲が彼らのベスト・シングルだと信じて疑わない(この曲だけでなくシングルの収録曲自体の出来が良いため)。

ここから3曲ほどハイテンションで攻撃的な疾走系ナンバーが続く。3曲目「This House Is A Circus」、4曲目「Still Take You Home」、5曲目「The View From The Afternoon」ともにオーディエンスのテンションは非常に高く、私は何度も押し潰されそうになった。私はアリーナFブロックで後ろの方だったが、前方のBブロックではダイブしている人を頻繁に見かけた。ライブには何度も参加しているけど、クラウドだのモッシュだのはどうも好きになれない。まあ、ライブには大抵1人で行くので友人(か××)と行けばまた違った楽しみ方があるのだろうが。

さて、このバンドのサウンドを司る肝は間違いなくドラムと言っていい。ドラム担当のマットは手数の多さと重厚なリズムが同居した非常にテクニカルなサウンドを奏でてくれる。デビュー当時はギター、ベースともに楽器経験が浅いということもありライブでは物足りなさもあったというが、ドラムだけは貫録が違った。今回生で見て驚いたのは、ドラムセットがワンタムワンバスの非常にシンプルな構成だったということ。HR/HMの連中みたいにツーバスで技巧を誇示することもなく、リンゴ・スターばりのシンプルなドラムであれだけテクニカルなリズムを叩けるのだから大したものだ。

中盤、ヒット曲の「I Bet You Look Good On The Dancefloor」でオーディエンスのテンションは一時的に持ち直すものの、後半のセットリストは3rdからの選曲が中心で少々ダレ気味だったのが残念だ。1stからの選曲はたった3曲で、前半飛ばし過ぎで後半失速気味の構成も含め、セットリストには若干の難ありと言っておこう。観客が押し合いへし合いになっていたのは前半5曲と10曲目の「I Bet~」のときくらいで、後は棒立ちでも問題ないくらいのテンションだった。どうも、彼らに攻撃的で疾走感のある曲を期待している多くのファンにとっては3rdの曲は非常にノりにくいというか、どうノっていいのか分からず戸惑っているような印象を受けた。

ライブでは演奏されなかったけど、みんな「Fake Tales Of San Francisco」「When The Sun Goes Down」「Teddy Picker」あたりが聴きたかったんじゃないかな。これらの曲を後半やアンコールに持ってくるだけで大分違ったのではなかろうか。さっき挙げた曲が(ヒット曲でありながら)今後ライブで滅多に演奏されない曲になっていくとすると、レディオヘッドにおける「Creep」みたいな立場になっていってしまうのだろうか(レディオヘッドは最近「Creep」を以前より頻繁に演奏するようになったが)。

ライブを通して、何となくバンドのやりたい音楽とオーディエンスの求める音楽が乖離しつつあるように感じた。これは「せっかく来日してくれたのだからヒット曲が聴きたい」という日本人ファンの心理と、最新アルバムをアピールしつつ音楽性の変化を示したいバンドとのちょっとしたすれ違いが生じたためだろう。「Secret Door」の音出しを「When The Sun Goes Down」のイントロと勘違いした観客が急に沸き立っていたのを見ると、「ああ、やっぱみんなこれが聴きたかったんだな」と思わざるを得ない。

humbug.jpeg
彼らの3rdアルバム『Humbug』を聴いたときはその音楽性の変化に驚いた。終始ヘヴィでブルージーなサウンドがアルバム全体を貫いているのだ。青臭さ全開だった1stの頃に比べると、ここまで渋くなれるものかと思ってしまう。一部、以前のような鋭角なリフとラップ調のヴォーカルで押し通す曲も含まれているが、アンセムになりそうな疾走系キラーチューンは1曲も存在しない。プロデューサーの影響か、ストーナーロックへの傾倒が甚だしいアルバムに仕上がっている。

もうひとつ残念だったのは音響。日本武道館はそもそもコンサートホールではないので音響はあまり良くないと言われているが、今はPAの技量次第でハイクオリティな音響を作り出すことは可能だ。例えば、2月のエリック・クラプトンのライブに行った時は音の悪さなど感じなかった。まあ武道館で70回以上も公演を重ねているクラプトンと初武道館のアークティック・モンキーズを比べるのも酷な話だが、もう少し何とかならなかったのか。ギターは低音が籠り過ぎ、ヴォーカルはよく聞こえないどころか質の悪いmp3の如く音割れしていて正直耳障りな場面があった。クリブスもアークティック・モンキーズも、演奏中しきりに音を気にしていたりメンバーやスタッフに耳打ちしていたのを見ると、どうやら彼らも音響に四苦八苦していたのは本当のようだ。PAの匙加減ひとつでどんな素晴らしい演奏も下手に聞こえてしまうことを考えると、音響は今後の課題かもしれない。

髪を伸ばしたアレックスは機嫌が良かったのか(どこかのインタビューで『ビートルズと同じステージに立てることを誇りに思う』旨の発言があった)、演奏後には「アリガトウ」を連発し、オーディエンスへの呼びかけも頻繁に行っていた。デビュー当時はちょっと嫌味なくらいクールだったことを考えると随分と大人になったもんだ。

私がアークティック・モンキーズに出会ったのは高校生のとき。とにかく彼らのデビューはオアシスのそれを彷彿とさせるくらい熱狂的だった。ロキノンでもクロスビートでも異常なくらい持ち上げられていた記憶がある。現に私も「オアシス以来の衝撃」なるキャッチコピーにつられて彼らの1stシングル「I Bet You Look Good On The Dancefloor」を手にしたのである。やがて「オアシス以来の云々」というキャッチフレーズは自明のものになっていくのだが。

ただし、音楽性はオアシスとは異なる。オアシスは基本的にビートルズをはじめとする60年代のロックンロールに80年代後半のマッドチェスター的サイケデリアを通過させた音、つまりビートルズを思いっきり歪ませて気だるくしたらこうなりましたみたいなサウンドを鳴らしている。ゆえに厚みのある音を志向し、バックはギター・ノイズで埋め尽くされている曲が多い。

対してアークティック・モンキーズは2000年代前半のガレージロック・リバイバルとポストパンク・リバイバルが交錯する過渡期に生まれたバンドなので、基本的にサウンドもその二者のいいとこ取りである。いい意味でスカスカな音とクールなリフを主体とした曲という基本軸はそのままに、より攻撃性を増して先鋭化したサウンドが評価されたのだろう。また、アレックスの書くイギリス人らしいアイロニカルな詞のセンスも当然高く評価された。

もうひとつはヒップホップへの傾倒である。メンバーは音楽的には相当マニアックな部類に入るが、彼らは「若者がギターよりもターン・テーブルを欲しがる時代」に生まれ育ったのだ。ヒップホップが席巻しているアメリカに比べてイギリスはまだロックの地位が揺らいでいないと思われがちだが、イギリスの若者も大抵はロックよりもヒップホップの方が格好いいと思っていたようだ。そんな彼らもヒップホップを聴いて育ったことはインタビュー等で明かされており、アレックスの早口で畳みかけるようなヴォーカル・スタイルはヒップホップの影響なのではないだろうか。

そして忘れてはならないのが、彼らはインターネット世代初のメジャーでブレイクしたバンドということだ。今でこそ当たり前だが、世界最大級のSNSサイトMySpaceでバンドの楽曲を公開し、デモ音源をmp3形式で広く配布する手法を採ってじわじわと人気に火が付き、やがてブレイクに至ったのは彼らが初めてである。私も彼らのmp3デモ音源をすぐさまダウンロードしたのを覚えている。同様の手法でブレイクした同郷のシンガー・ソングライターにリリー・アレンがいる。思えばiPodの爆発的普及もこの頃からで、バンドにとっても音楽にとっても、「インターネットが必要不可欠」になるかならないかのギリギリの時期に誕生したバンドだと個人的には思っている。

ちょっと辛めのライブ評になってしまったが、今後が期待されるバンドなだけにここで失速することなくUKのトップ・バンドまで上り詰めていって欲しい。ただし、今回のライブと3rdアルバムは今後のバンドを占う試金石になるだろうね。どうも今回のライブや3rdを聴いてファンがふるいにかけられてしまった気がしなくもないので……。次に来日するときは代々木体育館やさいたまスーパーアリーナを満員にできるくらいのバンドになっててくれよ。

◇Arctic Monkeys - Brianstorm

The Temper Trap@恵比寿LIQUIDROOM

THE TEMPER TRAP PREMIUM LIVE
@恵比寿LIQUIDROOM
2009.10.09 (Fri)
OPEN / START : 19:00 / 20:00

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[Set List]
01. Rest
02. Fader
03. Fools
04. Down River
05. Love Lost
06. Sweet Disposition
07. Resurrection
08. Drum Song
09. Science Of Fear


The_Temper_Trap.jpg
大学の先輩であるAさんのお誘いを受けて、The Temper Trapの初単独来日公演(プレミアムライブ)に行ってきた。夏フェスにも行かなかったし、ライブに行くのは3月下旬のOasis以来だ。名前を知ったばかりのバンドのライブに行くというのも新鮮な体験だろう。一応、MySpaceやYouTubeで一通り聴いてからライブに臨むことにした。

The Temper Trapはオーストラリア・メルボルン出身の4人組ロックバンド。活動の拠点をUKに移し、2009年にアルバム『Conditions』でデビュー。ヴォーカルはインドネシア出身で、伸びやかな高音の美しい声を聴かせてくれる。曲調はU2Coldplayに連なる叙情派でクールなUKロックサウンドといったところだろうか。初来日となったサマーソニック’09でのアクトはなかなかの評判だったらしい。

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UKではデビューアルバムが初登場7位を記録するなど、新人バンドとしては上々の滑り出しを見せている。新人バンドブームの終焉に、いい加減飽きただろって感じのニューレイブ・ブームが未だ続くUKロック・シーン。彼らがThe White Liesに続くアンセム・バンドになり得るのか注目したい(Glasvegasはちょっと期待外れだったかも)。

レーベルのプロモーションやCDの応募券で相当数のチケットがばら撒かれたらしく、リキッドは満員状態。そりゃタダならみんな見にくるよなって感じ。開始に少し遅れてしまい、私が入場したときは2曲目の「Fader」が始まるところだった。個人的にはアルバムで一番好きな曲。ポップなメロディとファルセットのコーラスが美しい。数か月ぶりにモスコミュールを軽く煽ったら微妙に頭がクラクラしたような気分になったが多分気のせいだろう。

ライブはCDよりも力強く地に足の着いた演奏が印象的だった。ヴォーカルの声は高音までよく出ているし、リズム隊も安定感がある。音の揺らめく感じが若干エキゾチックに聴こえたのは、インドネシア出身のヴォーカルの影響だろう。メンバーがアジア圏出身だとちょっと応援したくなる。ライブのハイライトは6曲目、1stシングルでスマッシュ・ヒットを飛ばした「Sweet Disposition」の盛り上がりが最高潮だったかな。こちらもファルセットとクールなサウンドのハーモニーが美しい。

演奏曲は全9曲でアンコール無しのコンパクトな構成だったが、無料招待のプレミアムライブならこんなところだろう。さて、ライブ熱が再び湧いてきたので、10月は19日に行われるArctic Monkeysの武道館公演に行く予定。前座でThe Cribsが来るらしいけど、直後に単独公演も控えてるからそっちにも行こうかしら。年始にはJETKasabianの来日公演も控えているし、またお金が飛びそうだな。

ジョニー・マー(元The Smithsのギタリスト)の電撃加入はファンには必ずしも歓迎されていないみたいだけど、天下のジョニー・マーが来るのならお金を払う価値はあるってもの。The Smiths大好きだしね。The Cribsは何故かスルーしていたけど、ライブまでには全アルバムを聴いてみることにしよう。

ちなみに、ライブ後はAさんのご友人と恵比寿のブリティッシュ・パブ「What The Deckens!」でお食事。何の因果か今回で4度目の訪問。ボイルした野菜に分厚いパイ。これぞイギリス料理だよなってお味。

★The Temper Trap - Sweet Disposition

ロックンロール・スターを待ちながら

  • Posted by: Rainyblue
  • 2009-10-07 Wed 00:39:36
  • Music
偶然、過去の日記を読み直す機会があった。日記というものは、それが書いた本人か否かにかかわらず、たいてい読むと恥ずかしくなるもの。もちろん俺も例外ではない。特に2007年上半期の日記、あの初々しさはどこから湧いて出たのだろう。大学に入って、慣れない東京の地に戸惑い、新しくサークルに入り、初めてギターに触れてバンドを組んでみた……そんな青臭い初期衝動の塊みたいなのが文章の端々から染み出してくるような、そんな感覚を覚える。まあでも、死ぬまで青臭くはありたいな、とは思うけど。

mixiの日記も読み返してみる。そういえば、コメント欄に目を通すと名前が空欄になっている人が多くてちょっと寂しくなった。色々な事情があってmixiから離れて行っちゃったんだろうけどね。国際教養学部で留学に行っている同級生とか、もう帰ってきた頃なんじゃないかとふと思ったり。

3月中旬に友人主催のライブに出演してから久しくギターに触れていないので、丸っこい瓢箪みたいなギターを膝に抱えると、ふいにそれが新鮮な感触のように思えるときがある。ギターを始めた頃に比べて上達したかといえばそれは否だ。もちろん、練習量が圧倒的に足りないのだから当たり前の話なんだけど。明日ちゃんと弦を張り替えてあげよう。黒いエピフォン・スーパーノヴァを眺めながら、そう心に決めた。

先日、Twitterで知り合った他大学の後輩と会ってきた。メッセージをもらった時は「シューゲイザー好きな人同士で話そう」という名目だったはず。それがいつの間にか、彼と初めてお会いしたベースストの方とバンドを組むことになってしまったのだから人生何が起こるか分からない。彼のことは少し前から知っていたので話は早かったけど、他愛もないお喋りがいつの間にかバンドの顔合わせに変貌していた。金曜日にはスタジオに入ることになっている。正直久し振りで心配だけど、新しいバンド、楽しんでみようと思う。

確かに、「シューゲイザー」なるものは80年代終盤~90年代前半にかけて隆盛したムーブメント、しかもさして注目を浴びることなく終息したジャンルだから同世代に好きな人が少ないのも理解できる。いや、探せばたくさんいるんだろうけど、狭いコミュニティの中で探し出すのは難しいよなやっぱり。世界のインディーズ・シーンに目を向ければ、次々と新人が生まれているからきっと根強い人気があるのだろう。昨年My Bloody Valentineが十数年ぶりに復帰・来日してフジロックのヘッドライナーを務めたことでそれなりに知名度も上がったことだし。

rockin'on11月号を読む。オアシス、ノエル脱退の真相。そしてオアシスデビュー当時(1994年)のインタビュー再掲。編集長もライターも文章から動揺がにじみ出てる。みんなオアシスが好きなんだな。実家にいるとき、Yahoo!のヘッドラインで第一報を知った。やはり私も動揺を隠せなかった。マイケル・ジャクソンがこの世を去った時よりもショックだったかもしれない。

マンチェスター出身で札付きのワルから成り上がったバンド。いつだって彼等はゴシップ・メディアを賑わしてきた。だからギャラガー兄弟の脱退・解散騒動は枚挙に暇がない。だが今回はノエルが正式な声明を発表したことで事態はより深刻になったと言われている。

夏休み中ほったらかしにしておいたブログにログインしたら非公開コメントが届いている。送り主は俺のブログを読んでくれている高校生ブロガーからだ。彼はいま受験生で、自分にアドバイスを求めてきてくれたのだ。そして「ノエルはきっと戻ってくる。そんな気がしています。」と付け加えられていた。こんな俺でも誰かに頼られるってのは凄く嬉しい。そしてそんな年下の彼からの励ましは、年上のそれよりも大きな力になったりするもんだ。

……髪を切ったら気付いてもらえる人間を目指そう。

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