青い空はポケットの中に - Movie

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映画『サマーウォーズ』のセカイ系的考察

見ようと思いつつ時間が過ぎてしまった『サマーウォーズ』をようやく見ることができた。『時をかける少女』(2006年)で各方面から高い評価を獲得した細田守監督の最新作だ。劇場は吉祥寺バウスシアターで11:35の回。さすがに平日の午前中では客は学生3人とまばらだった。バウスシアターは近所だし好きな映画館なんだけど、さすがにこの時期では最も小規模なシアターで、スクリーンや音がもう少し大きければ申し分なかった。

見終わった後、多くの人と感想を共有したいという欲求を励起される映画だと思った。できれば誰かと見に行って、その人と感想を語れれば良かったかもしれない。きっとこの映画は、見た人によって感想が180度変わる可能性を秘めていると思う。なので『サマーウォーズ』を見に行かれた方は少しでいいので感想を教えてもらえると嬉しい。

動画・背景・CGは画面上に違和感なく溶け込んでおり、「OZ」の無機質でポップな世界と長野県の旧家というミスマッチな世界観も、どちら一方が浮くことなく物語にマッチさせることに成功している。朝顔の見せ方や泣き顔の描き方、大おばあちゃんと幼少時の侘助が畦道を歩くシーンの美しさなどはいかにもジブリ的な演出であり、細田監督がジブリの系譜に連なる人物であることを示唆している。

声の出演はほぼ職業声優ではなく、俳優や子役がキャスティングされている。私は基本的にアニメーション映画で職業声優を軽視したキャスティングは嫌いだが、『サマーウォーズ』ではむしろ素人臭い演技が好感につながった。主演の神木さんや桜庭さんは結構いい味出してたんじゃないかと思う。



▼セカイ系と『サマーウォーズ』
予告編を目にしたときから何となく、『サマーウォーズ』「セカイ系」ではないだろうかという思いを抱いていた。「セカイ系」とは、およそ「『きみ』と『ぼく』との間の閉じた関係性が、何ら具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』と直結している」ストーリーの特徴をもった作品群のことを指すといわれている。勿論明確な定義があるわけではなく、論者によって様々な定義が提唱されている。

代表的作品として『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明)『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流)『ほしのこえ』(新海誠)がよく挙げられている。そのルーツは『エヴァ』にあるとする人もいれば、ライトノベルの諸作品を挙げる人もおり、更には村上春樹作品の影響を指摘する人もいる。

大抵の場合において「きみ」は物語のヒロインであり、特殊な能力を与えられていたり、非人間的存在だったり、世界の危機と直接対峙する存在だったりする。対して「ぼく」は物語の主人公かつ一人称視点で、およそ平凡な人物として描かれており、「きみ」に翻弄されたり相互に影響し合いながら「きみ」との関係を深化させていく、といった構図で往々にして語られる。

「セカイ系」という用語はやや批判的な文脈で使われることが多いようだ。その「セカイ系」の受容を世代論で区切ってしまうのはいささか横暴だが、多分こうした作品群を受け入れられない世代は存在するのではないか。つまり、「セカイ系」的物語の受容には一種の世代間断絶が存在する。単刀直入に言ってしまえば、『エヴァ』を楽しめたかどうかが境目なのかな、と。

ある意味、「セカイ系」は個人主義の産物ということもできるだろう。「世界の危機」は「きみ」と「ぼく」というごく個人的な関係内で完結している。家制度や大家族、地縁共同体といった価値観はとうの昔に崩壊するか希薄化しており、それに伴って発生した核家族や一人っ子などのごく個人的な人間関係のみで育ってきた世代が「セカイ系」的作品の担い手となっている面は指摘できるだろう。細田監督も一人っ子だというし、「セカイ系」の担い手または受容層に一定のジェネレーション・ギャップが存在することにはある程度の説得力があると考える。

そして、結論と言えるかは微妙だが、「『サマーウォーズ』は「セカイ系」の応用型である」との認識に至った。

以下、ネタバレを含みつつ、卒論のネタ探しのつもりで思いついたことを取り留めもなくメモ書きしていくので未見の方はご注意ください。勢いで書いたのできっと間違いや勘違いもあると思うけどその辺はご容赦を。



▼娯楽映画としての『サマーウォーズ』

あらすじは公式サイト等で確認してほしいが、物語は非常にオーソドックスかつ娯楽作品としては典型的である。脚本面では、必要な情報は過不足なく観客に提示され、あらゆるファクターは伏線として回収されるし、すべてのキャラクターには物語的救済が与えられる。演出面では、青春と恋愛的要素の導入、ひと夏の冒険/成長、重要人物の死、(活劇的な)カウントダウンなど、娯楽映画に典型的な要素がこれでもかと詰め込まれている。すなわち、カタルシスを得るのには十分であって消化不良や後味の悪さを感じることはない。脚本の奥寺佐渡子氏が「本当の娯楽映画を目指したい」(公式パンフレット)と述べているように、「娯楽映画」としての強度は十二分に高いのだ。



▼なぜ『サマーウォーズ』は「セカイ系」なのか
『サマーウォーズ』
は主人公である健二が憧れの先輩である夏希に頼まれ、夏希の彼氏(フィアンセ)に偽装して長野県上田市にある彼女の実家へ赴くところから始まる。そして物語は基本的に「きみ」(夏希=ヒロイン)「ぼく」(健二=主人公)との関係を軸に進んでいく。

そこへほとんど唐突に、電脳世界のSNS「OZ(オズ)」のハッキングを契機とした「世界の危機」が訪れる。そして最終的には、具体的(より正確にいえば社会的)な中間項を挟むことなく、健二と夏希によって「世界の危機」は解決される。

物語の要素を抽出してみれば、『サマーウォーズ』には多分に「セカイ系」的要素が含まれており、基本的に「セカイ系」作品として規定してしまってもよさそうだ。だが、『サマーウォーズ』が従来の「セカイ系」作品と決定的に異なるのは、「家族」を重要なファクターとして対置させたことである。物語における「家族」は「OZ」の対立概念であると考えられ、【「きみ」と「ぼく」】と【「世界の危機」】との間に介入する擬似的中間項でもある。『サマーウォーズ』における「家族」の役割については後で述べることにする。

さて、『サマーウォーズ』の「セカイ系」的性質を規定している最大の要素は間違いなく「OZ」である。「OZ」は個人と世界を直接的に接続する概念装置であり、「OZ」を媒介に、主人公とヒロインあるいは家族は直接「世界の危機」と対峙することが可能になっているからである。「OZ」のハッキング首謀者であり、かつ「世界の危機」をもたらしたAI「ラブマシーン」は、健二と夏希、あるいはカズマ侘助といった大家族の一員と「OZ」を媒介に直接リンクしており、彼らの働きかけに対して「ラブマシーン」は逐一応じていることからも「OZ」の「セカイ系」的性質が窺えよう。

「OZ」の対立概念としての「家族」の世界は主に前半に描かれる。「OZ」の危機に際して大おばあちゃんが知己や有力者に片端から電話をかけるシーンが象徴的だ。ここではあくまで「OZ」に対する「家族」、すなわち共同体的価値観の優位性が示される。そして大おばあちゃんの死によって、後半の物語世界は「セカイ系」的世界である「OZ」へと移行していく、というのが一般的な見方だろう。

その見方はもちろん正しいが、ただ私は【前半=家族】、【後半=OZ】という単純な図式であるとは必ずしも思えず、基本的に物語は一貫して「セカイ系」的世界を描いており、そこに「家族」が介入していく、といった構図の方が近いのではないかと感じた。

そして『サマーウォーズ』の「セカイ系」的な最大の見せ場は、「OZ」内で夏希のアバターが「ラブマシーン」と花札で勝負する場面だろう。物語前半に家族とのコミュニケーションの場で用いられた花札を伏線としてクライマックスに持ってくる演出も見事だが、「世界の危機」が、いち女子高生の花札によって解決されるという構図は実に「セカイ系」的である。そして世界中のアバターが、何ら具体的中間項として機能することなく皆一様に夏希のアバターに力を貸し、やがてはひとつに融合することで、夏希のアバターは翼をもった巨大な姿に変身するのである。

この特撮ヒーロー的な、あるいは美少女戦士的なイメージを参照した大掛かりな演出はある意味では荒唐無稽にも見える。だが、私はこのシーンで最も物語に没入したし、最も感動できたのである。つまり私は「セカイ系」を違和感なく受け入れられる世代ということになる。個人的には夏希の「こいこい!」のぶっきらぼうな言い方が気に入った。だが、そうでない人にとってはこうしたシーンはお笑い草でしかないのだろう。

重要なのはヒロインが「世界の危機」と直接対峙することであって、それは「セカイ系」作品の必須要件といってもよいだろう。

「セカイ系」は「きみ」と「ぼく」との関係を基軸にしている以上、物語の基本は二項対立である。このことは『サマーウォーズ』でも顕著であり、物語内で「家族」のある要素は、「OZ」内の特定の要素と逐一対応している。この描写は徹底されており、そうすることで戦国時代の合戦を「OZ」内の対「ラブマシーン」戦における戦術として応用してしまうようなシーンが違和感なく物語と調和しているのではないだろうか。

〔例〕「家族」⇔「OZ」
・大家族(夏希)⇔核家族(健二)
・個人⇔アバター
・戦国時代の合戦⇔対「ラブマシーン」戦
・家族の危機⇔世界の危機
・高校野球⇔「OZ」内部での戦い
・カズマと少林寺拳法⇔キング・カズマ(格闘ゲームチャンピオン)
・健二と夏希の恋(?)⇔侘助と夏希の初恋←※一種の代理戦争
・etc...


▼「セカイ系」的物語における擬似的中間項としての「家族」

「セカイ系」
的切り口で『サマーウォーズ』の物語を図式化してみると以下のようになる。

〔A〕「きみ」(夏希=ヒロイン)と「ぼく」(健二=主人公)の出会い
          ↓
〔B〕【閉じた人間関係が「家族」に拡張】:擬似的中間項
          ↓
〔C〕OZの暴走をきっかけとした「世界の危機」の発生
          ↓
〔B'〕【「世界の危機」は「家族の危機」に収斂】:擬似的中間項
          ↓
〔C'〕最終的に「きみ」と「ぼく」との間で「世界の危機」を解決
          ↓
〔A'〕「きみ」と「ぼく」との関係の成立(キス=恋愛の成就)

すなわち、「きみ」と「ぼく」という閉じた関係性を「家族」に拡張させ、「世界の危機」「家族の危機」に収斂させていくことによって、「セカイ系」の物語を「セカイ系」のまま拡大再生産することに成功しているといえるだろう。

この「家族」の存在は、「セカイ系」的物語における擬似的中間項の役割を果たすとともに、「セカイ系」的物語の受容における緩衝材の役割を果たしているのではないだろうか。この記事の冒頭で、「セカイ系」的物語の受容には一種のジェネレーション・ギャップが存在するのではないかと述べたが、「家族」というファクターの存在によって、『サマーウォーズ』を、紛れもなく「セカイ系」的物語でありながらあらゆる世代に受容可能な作品として成立させてしまっているのは特筆すべきだ。

「擬似的」中間項としたのは、『サマーウォーズ』があくまで「セカイ系」として位置づけられていることを明確にするためである。「セカイ系」を持ち出すときに語られる中間項とは「社会性」のことであり、それはアニメの成立以来連綿と続く「リアリズム」の系譜でもある。具体的には主人公がある組織の一員だったり、物語に国家機関が介入したりすることであるといえよう。

しかし「家族」はあくまで「きみ」と「ぼく」との関係を拡張する要素であって、それと別次元で存在している社会的要素ではない。だがそれは「非リアリズム」的作品である「セカイ系」に「リアリズム」の要素を偽装させるだけの価値は十分に存在する。『サマーウォーズ』における「家族」はリアリズムの偽装でもあるのだ。

このことはエポックメイキング的な事象として位置づけることも可能だろう。「セカイ系」的作品の典型である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』『涼宮ハルヒの消失』は、たとえオタク的コミュニティ、言い換えれば「セカイ系」的物語を違和感なく受容できる世代で話題となってヒットを飛ばしたとしても、それが家族連れや中高年層にまで波及するとは考えにくい。

ネット上ではいかにも『ヱヴァ:破』が話題になっているように感じられるし、実際ヒットも飛ばしている。ただそれは、ほぼそうしたコミュニティ内での閉じた現象であって、普段ジブリ映画を観に行くような層が『ヱヴァ:破』や『ハルヒ』をわざわざ見に行くことはほとんどないと言っていい。だが、『サマーウォーズ』はそうした層が見に行ったとしても違和感がないし、伝え聞くところによれば劇場では親子連れやサラリーマンの姿も多かったという。

余談だが、ある種の物語的偽装は宮崎駿作品でも行われており、特に『崖の上のポニョ』(2008年)に顕著である。『崖の上のポニョ』はその実、「死」≒「あっちの世界へ行ったまま帰ってこない」という非常にダークなテーマを内包しながら、表面的にはほのぼのとした家族で楽しめる絵本的世界を描いた映画として提示されている。商業ベース作品を志向する場合、広く受容させにくいテーマを特定のファクターを用いて偽装することは監督の作家性を十分に発揮させる上で有効な手法であり、決して唾棄されるべき手法ではない。むしろ作品に新たな深みを与えることすら可能である。


▼『サマーウォーズ』は本当に共同体的価値観を称揚した作品か

ところで、『サマーウォーズ』は、一般的には「家族」をテーマとし、「ネット上の危機を家族の力で解決することで家族やコミュニケーションの大切さを再認識させる」映画としてメディアでは紹介され、そのように受容されることで一般的に消費可能な映画として成立している。だが、果たして『サマーウォーズ』は無批判に「家族」という共同体価値観を称揚する作品として位置付けてしまってもいいのだろうか。

むしろ『サマーウォーズ』は「家族」の崩壊、共同体的価値観の限界を提示した作品として見ることも可能ではないか。前に述べたように、「OZ=電脳世界」と「家族」との間には明確な対立軸が存在している。それは「OZ」のアバターに象徴されるような、「OZ」と個人との間における一対一の対応関係である。そうすることで「電脳世界の危機」を「旧家の大家族」が解決するというある種荒唐無稽なテーマを違和感なく物語内で消化することが可能になっているのだ。

物語内では重要人物である大おばあちゃんの死が描かれる。だが、大おばあちゃんに対応するファクターは存在しない。「OZ」のアバターも描かれていない。大おばあちゃんの対立軸または対応関係はラストまでついぞ登場することなく終わりを迎えるのだ。「世界の危機」は大おばあちゃんの死を契機として「家族の危機」に収斂していく。このことはクライマックスで、原子力発電所への墜落を逃れた人工衛星が陣内家に衝突する危機に見舞われるシークエンスを見れば明らかである。もちろんそれは「世界の危機」から「家族の危機」への物語的転換である。

そう考えると、ラストシーンは不気味にも思えてくる。夏希たちが大おばあちゃんの誕生を祝う歌を披露するのは当然前半のシーンの物語的回収ではあるが、大おばあちゃんが亡くなっていることを感じさせないほのぼのとしたラストシーンは、穿った見方をすれば少々奇妙にも見える。「旧家の大家族の当主」である大おばあちゃんは既に存在しない。それを象徴するような大邸宅も半壊してしまった(後半の随所で大邸宅を壊すような描写がなされているのも興味深い)。ラストで示される笑顔の大おばあちゃんの笑顔の遺影と朝顔のショットはいかにもジブリ的な表象で美しく、私も胸が熱くなるような感動を覚えたが、一方では「家族」の崩壊とその限界をアイロニカルに提示していると見ることもできる。

不況下では往々にして社会は保守化するもので、やれ家族だの共同体だのといった旧来の価値観が称揚される傾向にある。そしてバーチャル・リアリティやインターネット、個人といった価値観は矮小化されていく。私はそうした風潮はナンセンスだし危険なことであると思う。

それはともかくとして、『サマーウォーズ』を、単に「家族の大切さを描いた」共同体的価値観を無批判に称揚する作品として規定することは難しい。それは『サマーウォーズ』の「セカイ系」的傾向を見るとそう思えてならないのだ。

物語的には「セカイ系」的ファクターである「電脳世界=OZ」との対立概念として「家族」を置くことが極めて有機的に機能しており、それは『サマーウォーズ』の「セカイ系」的世界における擬似的中間項として機能している。そして「セカイ系」はある意味では個人主義に根ざしており、共同体的価値観とは根本的に相容れないものである。

そう、結局のところ最後に勝利したのは健二と夏希、すなわち「きみ」と「ぼく」なのだ。


▼「セカイ系」を拡張した『サマーウォーズ』
『サマーウォーズ』
「純セカイ系」的作品(例:『エヴァ』)を志向する人には「家族」の要素が蛇足に感じられてどっちつかずな作品に見えただろうし、この映画に「脱セカイ系」的物語(例:ジブリ映画)を期待した人にとっては、「世界の危機」が閉ざされた人間関係内で解決されてしまったことを残念に思うだろう。そうした意味で「家族」は「きみ」と「ぼく」とほぼ同義にすぎないファクターとなる。

そこで私は『サマーウォーズ』を「セカイ系」の拡張に成功した作品として高く評価する。この意味で、「家族」を擬似的中間項として導入するという「リアリズムの偽装」は、「セカイ系」の概念を拡張するにあたって重要な要素となる。そして『サマーウォーズ』は、今まで(「きみ」と「ぼく」の関係性に似た)閉ざされたコミュニティ内でしか受容されなかった「セカイ系」作品を、ごく一般的なコミュニティにまで受容の層を拡張したことに大きな意義があるのではないか。

ネット上では、『サマーウォーズ』は面白いけれど残念な作品であるとの見方が多かったので、この映画をどのように評価しようと考えたとき、こうした見解に至った。『サマーウォーズ』を見終わったときに感じた、自分で言うのも野暮だが素直な感動を大切にしたかったからだ。

したがって、『サマーウォーズ』はその受容層の「脱・セカイ系」化することに成功したエポックメイキング的な「セカイ系」映画に位置づけられると考える。それは最初に述べたように『サマーウォーズ』が娯楽作品として十二分な強度を持っているからこそ商業ベース作品として成功したともいえる。このことを「ネオ・セカイ系」などと言ってしまうのは誇大宣伝かもしれないけれど、まあこういう見方もあるよってことで終わりにしておこう。

via:
大変参考になりました;
映画『サマーウォーズ』はセカイ系 - 反批評的考察 β 様

映画『バットマン ビギンズ』『ダークナイト』レビュー

早稲田松竹で見てきました。毎月1日は「映画サービスデー」で、一律800円で見ることができます。それに話題作2本立てということもあって館内はほぼ満席。2作合わせて約5時間もの大作なので、上映が終了したあと時計を見たら22時近くになっていました。

『バットマン ビギンズ』(クリストファー・ノーラン、2005年)は、主人公ブルース・ウェインが如何にしてバットマンになったのかを描いています。『バットマン』シリーズの実写映画版は、怪作『メメント』(2000年)で知られるクリストファー・ノーランが監督になってからダークでシリアスな作風に変化したものの、基本的にはハリウッドにおける大作ヒーロー映画としての文法を大きく逸脱することはなく、”アンチヒーロー的要素を併せ持った”ヒーロー映画として万人が楽しむことができる作品に仕上がっています。また、同一性の排除と冷徹なまでの視線、そして執拗なまでのメタ的視点によって、クリストファー・ノーランらしい映画にもなっていると思います。

まあ、ハリウッドの制約として、次回作の製作がほぼ前提事項となっているシリーズものでも、興行収入如何によっては第1作限りで打ち切られてしまうことも十分考えられます。よって、シリーズものあるいは三部作ものの第1作は、得てしてそれだけでも独立した作品と見なしうる、あまり冒険しない作風になりがちです。

『スター・ウォーズ』シリーズ(EPIV・V・VI)でも、『スパイダーマン』シリーズでも、三部作の2作目が最高傑作と評されることが多いのは、その作品がそもそも前作のヒットを前提としているために、潤沢な製作資金をはじめとする様々なビジネス的特権が得られ、前作以上に監督に与えられた自由度が高く、映画監督としての作家性を存分に発揮できる環境にあるという、両者の相乗効果が生んだハリウッドという巨大映画産業の特殊性によるところが大きいでしょう。そして第3作が成功するか否かは、これまたシリーズ・作品によってガラッと評価が変わってしまうのが面白いところです。

あとは、悪役のラーズ・アル・グール(正確にはその影武者)役に渡辺謙氏が出演しています。私は公開時に話題になったことをすっかり忘れてしまい、クレジットを見るまで気付きませんでした。スキンヘッドが特徴的な敵組織のボスで、東洋趣味的な武術や「忍者」があちこち登場しますが、まあその描写が無邪気なハリウッド的偏見に満ちていることはもはやご愛嬌ということで。

結論から言うと、物語としての強度や映画としての完成度は『~ビギンズ』の続編である『ダークナイト』の方が高いと私は判断しました。

『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン、2008年)は、同年のアカデミー賞を総なめにするなど公開時から高評価だったわけですが、なるほど王道的なアメコミヒーロー映画に対するメタ的な視点を獲得しつつ、どれだけそこから逸脱できるかということに果敢にチャレンジしているように感じられました。

前作ではやや未来都市の趣もあった舞台・ゴッサムシティも、本作ではシカゴでのロケを中心に据えることでSF的な要素は薄められ、犯罪と腐敗で荒廃しつつある現代都市として描かれています。

また、ダークでシリアスな世界観もより徹底して推し進められ、物語からカタルシスを極力排除しようと試みています。しかしながら活劇としてのスペクタクルの持続性は前作以上に高いため、観客は画面上でハラハラドキドキしつつも、なかなか物語的に救済されないもどかしさを味わうことになるのです。

「悪」に対する描写も徹底され、最大の敵であるジョーカーは、無差別テロや殺人を犯すことで、市民や街を恐怖と混乱に陥れることそのものを楽しむ極悪非道の狂人として描かれています。しかも彼は異形のクリーチャーでも特殊能力をもった超人でもなく、ピエロのメイクを施した”普通”の人間です。しかしながら彼は観客の潜在的良心を逆撫でする言動や行動を続け、ついにはバットマンまでもが追い詰められる事態になるまで物語を圧迫し続けます。

「悪」に対して本作では「正義」という語が執拗に反復されます。「正義」と「悪」という二項対立を導入しつつも、それを二者の狭間で巧みに翻弄してみせる構成は見事です。

バットマンは一部の協力者を除いて市民や警察からは敵視され続ける存在であり、その時点でアンチヒーロー的側面を持つことになりますが、さらに本作では悪役ジョーカーと自らに通底する側面をバットマン自身が感じ取ったり、味方と思われた敏腕地方検事ハービー・デントがいとも簡単にトゥー・フェイスなる悪の存在へと変貌してしまったりすることで、バットマン自身の存在理由を問い直さなければならなくなります。したがってバットマン自身のアイデンティティも揺るがされることになっていくのです。

そもそもバットマン自身の悪と対峙する手法も、決して劇中の登場人物、あるいはスクリーンの向こう側の観客の共感を得られるとは必ずしも言い難い、アンチヒーローの典型的描写がなされているのが特徴です。「正義」/「悪」とは何かという至極普遍的な主題を参照しつつも、それだけでは割り切れない「何か」を描いているのが魅力のひとつだと思います。

結末も、同一あるいは類似シーンの反復を避けることによって観客が即座に判断することを困難にしています。と同時に先程も述べたように、カタルシスや救済も物語からできるだけ排除されています。排除されているといっても、大作ハリウッド映画の文法をギリギリ違反しない限りにおいて物語的救済は描かれてはいますが。ゆえに明確なハッピーエンドではありませんが、当然バッドエンドでもありません。明確なバッドエンドが描かれてしまった時点で、それは世界中の観客に受容されることを前提とした大作ハリウッド映画の文脈から逸脱し、単なるカルト映画と呼ばれることになってしまいます。

ただ、本作は「正義」と「悪」の存在を前提にしたヒーローもののアメコミが原作なわけで、そこからすれば極めてヘヴィな結末だと言えると思います。本作が「アメコミを超えた」と評される所以はここにあると思います。ちなみにラストの描写が特に斬新かといえばそうでもなく、私は『ターミネーター』シリーズのハードボイルドさに共通するものを感じました。ま、詳しくはご覧になってください。

あとは、この映画はたぶん経営組織論とか、人文系では社会学とか心理学を専攻している人が見ると非常に興味深いのではないでしょうか。私も観ていて、「こういう状況下において人はこう動く」ということが常に意識されて作られた映画であると感じました。

私は門外漢なので詳しくは分かりませんが、ネット上で見かけたあるレビューには「この映画がゲーム理論を念頭に置いていることは明白」と述べられていました。ゲーム理論か…なるほどな、と。たしかに、一定の状況下である目的に向けて行動する個人または集団の行動を数学的に分析するゲーム理論が念頭にあるのはほぼ間違いないと思います。ゲーム理論は私もさわりだけは理解しておきたいと思っているのですが、長文が苦手な私でも理解できそうな薄くて分かりやすい本が見つかりません(数学も苦手ですがアレルギーではありません…一応元理系なので)。どなたか適当な入門書があったら教えてください。

と、まあ初見での簡単なレビューはこんなところにしておきます。

『バットマン ビギンズ』『ダークナイト』は早稲田松竹で6月5日(金)まで上映中ですのでご覧になりたい方はお早めに。私はアメコミヒーロー映画では『スパイダーマン』シリーズが一番好きですが、今回見た『バットマン』シリーズ2作品も負けず劣らず強固な物語構造をもったとても面白い作品なのでお勧めできますよ。ただし、『ダークナイト』はとにかく重いので観る人を選ぶとは思いますが…。

ちなみに、この文章を書いているうちに日付を過ぎてしまいましたが、本日6月2日は「ぐうたら感謝の日」です。制定者はかの偉大なる野比のび太様です(詳しくはてんとう虫コミックス『ドラえもん』第14巻を読んでネ)。まあ普通に授業があるわけですが、ぐうたら大好きな私としてもぐうたらに感謝しつつ、残り少ない21歳の日々をのんびりと過ごすつもりです。

2008年度に見た映画50本

私が2008年度(2008年4月~2009年3月)に見た映画は、ちょうど50本です。

演劇映像コースに所属していながら目標の半分しか見られませんでしたが、映画を専攻していなければ一生見なかったであろう映画に巡り会えたことは貴重な体験でした。

以下、映画リストです。見た順番に並んでいます。
※『作品名』(監督名、発表年)☆=映画館で見た映画



【2008年度映画リスト】
01.『映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝』(渡辺歩、2008年)☆
02.『はなればなれに』(ジャン=リュク・ゴダール、1964年)☆
03.『彼女について私が知っている二、三の事柄』(ジャン=リュク・ゴダール、1966年)☆
04.『ワールド・トレード・センター』(オリヴァー・ストーン、2006年)
05.『アッシャー家の末裔』(ジャン・エプスタン、1928年)
06.『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ、1941年)
07.『極北のナヌーク』(ロバート・フラハティ、1922年)
08.『マイノリティ・リポート』(スティーブン・スピルバーグ、2002年)
09.『スーパーマリオ』(ロッキー・モートン/アナベル・ヤンケン、1993年)
10.『東京暗黒街・竹の家』(サミュエル・フラー、1955年)
11.『戦ふ兵隊』(亀井文夫、1939年)
12.『小林一茶』(亀井文夫、1941年)
13.『ONCE ダブリンの街角で』(ジョン・カーニー、2006年)
14.『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック、1956年)
15.『レザボア・ドッグス』(クエンティン・タランティーノ、1992年)
16.『スリ』(ロベール・ブレッソン、1960年)
17.『東京画』(ヴィム・ヴェンダース、1985年)
18.『何かが道をやってくる』(ジャック・クレイトン、1983年)
19.『ブロークバック・マウンテン』(アン・リー、2005年)
20.『リトアニアへの旅の追憶』(ジョナス・メカス、1972年)
21.『トップ・ハット』(マーク・サンドリッチ、1935年)
22.『フットライト・パレード』(ロイド・ベーコン、1933年)
23.『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック、1960年)
24.『サイコ(1998)』(ガス・ヴァン・サント、1998年)
25.『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー、1999年)
26.『バンド・ワゴン』(ヴィンセント・ミネリ、1953年)
27.『雨に唄えば』(ジーン・ケリー、1952年)
28.『ロスト・イン・トランスレーション』(ソフィア・コッポラ、2003年)
29.『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』(押井守、2008年)☆
30.『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(押井守、2008年)☆
31.『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ、2001年)
32.『崖の上のポニョ』(宮崎駿、2008年)☆
33.『頭文字D THE MOVIE』(アンドリュー・ラウ/アラン・マック、2005年)
34.『アイ,ロボット』(アレックス・プロヤス、2004年)
35.『女は女である』(ジャン=リュック・ゴダール、1961年)
36.『スパイダーマン』(サム・ライミ、2002年)
37.『スパイダーマン2』(サム・ライミ、2004年)
38.『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(押井守、1984年)☆
39.『紅い眼鏡』(押井守、1987年)☆
40.『人狼 JIN-ROH』(沖浦啓之、2000年)☆
41.『天使のたまご』(押井守、1986年)☆
42.『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜、2008年)☆
43.『インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国』(スティーブン・スピルバーグ、2008年)☆
44.『シモーヌ』(アンドリュー・ニコル、2002年)
45.『マイ・フェア・レディ』(ジョージ・キューカー、1964年)
46.『釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束』(朝原雄三、2007年)
47.『イントゥ・ザ・ワイルド』(ショーン・ペン、2007年)☆
48.『僕らのミライへ逆回転』(ミシェル・ゴンドリー、2008年)☆
49.『キートンのマイホーム』(バスター・キートン、1920年)
50.『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール、1959年)



【個人的トップ5】
1.『はなればなれに』
ゴダールで一番好きな作品。「映画的」な映画。思わず抱きしめたくなるような映像世界。決して難解ではないオシャレなフランス映画なのでまずはご覧あれ。

2.『レザボア・ドッグス』
カッコ良すぎて痺れる。血みどろギャング映画なのにスタイリッシュ。これだからタランティーノは侮れない。「鬼才」という言葉が彼にはふさわしい。

3.『ロスト・イン・トランスレーション』
ソフィア・コッポラの感性が光る美しい作品。マイブラ、ジザメリ、はっぴいえんどなどを起用したBGM&サントラも素晴らしい。私は吹き替え派だけど、この作品は字幕で見た方が味わい深いと思う。

4.『ファイト・クラブ』
一度は見ておくべきカルト映画。アメリカでの評価がとても高く、あらゆるランキングで歴代映画トップ10にランクインするほど。ブラピの名演にも注目。ネット上・論壇問わず考察や論文に溢れているほど考えさせられる作品。ポスト9.11以前の映画では最後の作品かもしれない。

5.『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
押井守作品では(今のところ)一番お勧め。難解な部分もあるけど上質なエンターテインメント作品に仕上がっている。80年代アニメ的な演出にも注目。私はこういう映像には懐かしさを感じてしまう。



【おすすめトップ5】
1.『ONCE ダブリンの街角で』
アイルランド・ダブリンの冷たい空気感と、あるシンガーソングライターの瑞々しい音像を画面上に余すところ無く湛えた傑作。心温まる作品なのでぜひ!

2.『スパイダーマン』『スパイダーマン2』
メジャー作品だけどこの2作は見ておくべき。ポスト9.11以降変質しつあるハリウッド映画のひとつでありながら、古典的要素をも含んだ見ごたえのある作品。ストーリーがとてもよく練られているし、メガネっ子なアメリカン・ナードが主人公なのもいい。だけど『スパイダーマン3』はあまりお勧めできない。

3.『ザ・マジックアワー』
2008年の日本映画の中では賛否両論の作品だったけど、とにかく笑える。これほど笑える映画もそうそうない。演劇人たる三谷幸喜があえて演劇的演出(舞台のようなセット、日本なのに西洋的な舞台)に徹した映像も見どころ。佐藤浩市の怪演がすべてを物語っている。

4.『人狼 JIN-ROH』
監督は押井守の愛弟子。とにかく重く、カタルシスもないが何故か心に残る作品。随所に西洋の寓話を挿入した演出や学生運動を背景にしたパラレルワールド的世界観は一見に値する。

5.『僕らのミライへ逆回転』
映画ファンによる映画ファンのための映画。おバカなコメディー作品かと思いきや最後は泣かせる構成もニクいぜ!



今年度こそ100本を目指します!

何かおすすめの映画があったら教えてください。

Cigarettes & Alcoholはやめました(押井守ナイト〈第二夜〉)

ただ今帰省中で、群馬にいるところ。
田舎。静か。虫が多い。山。暇。コンビニがすごく遠い。東京と比べたらの話だけど。
9月中は用事があるときを除いて帰らないつもり。



池袋の新文芸坐で、押井守ナイト〈第二夜〉を見てきた。8月30日の夜から31日の早朝にかけてのこと。第一夜はパイプ椅子が設置されるほどの盛況ぶりだったそうだが、今回も劇場はほぼ満員だった。上映されたのは4作品で、比較的マイナーな作品が中心。

オールナイトの映画館って独特な雰囲気がある気がする。新文芸坐の上映開始のベルは学校のチャイムに似たメロディで、さながら夜間合宿みたいな気分にさせられる。夜更かしなんて平気だろうだと思いきや、見終わった後には精根尽き果てたかのごとくヘロヘロになってしまった。ただ、上映中は画面に釘付けで一睡もすることはなかった。銀幕に体力まで吸い取られてしまったのだろうか。千鳥足で池袋からアパートまで帰り着いた。

以下簡単なレビューメモをどうぞ(ネタバレあり)。

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)
押井監督の劇場版第2作(事実上の第1作)。『うる星やつら』シリーズの劇場版第2作目。押井監督の作家性を決定付けた作品として名高いので、どんだけ難解な作品かと思いきや、良質なエンターテインメント作品に仕上がっており、観客を飽きさせないし、『うる星やつら』を知らなくても楽しめる。ただ、後でまとめるが監督の趣味全開である。原作者の高橋留美子先生を怒らせたというが、無理もないかも。セル画のやさしい質感とか、背景のタッチ、動画の動かし方はいかにも80年代アニメといった感じで、ちょっとノスタルジックな気分に浸れる。私が小さい頃のアニメってこんな感じだったよな~と…。楽しめる素晴らしい作品。おすすめ。

『紅い眼鏡』(1987年)
押井監督初の実写作品。ケルベロス・サーガ第1章。低予算製作かつB級臭さ全開の作品。冒頭こそ特撮映画みたいだが、ほぼ全編に渡って露出が抑えられた画面は暗く、ほとんどモノクロ作品みたい。そして立喰師が登場する(演じているのは故・天本英世氏)。俳優はほとんどが声優で、今では有名声優と呼ばれている人達がゴロゴロ出演している。B級臭さを感じたのは頻繁に挿入されるギャグ演出がアニメ調だからかも。上記の作品と同じく、作品世界における夢と現実の狭間があいまいで、重層的なメタ演出が多く、軽いタッチの作品の割に物語は難解。オチも今ひとつ腑に落ちない。一見アクション映画みたいだがアクションシーンはほとんどなく、万人にはおすすめできそうにない作品。

『人狼 JIN-ROH』(2000年)

監督は沖浦啓之。押井は原作・脚本を務める。ケルベロス・サーガの第3章。第二次世界大戦を、日本がイギリスと連合国側で参戦、ドイツ・イタリアの同盟国側と対戦して敗北(アメリカは第一次世界大戦よりモンロー主義を貫き不参戦)、日本がドイツ軍に占領されたとするパラレルワールド設定の世界における昭和37年の日本が舞台。手書きにこだわった画面はただただ美しく、スタジオジブリ作品にも匹敵する。人物描写が漫画的ではなく、登場人物にそれぞれ実在のモデルが存在するのかと思えるくらい、徹底したリアリズムに則っている。物語は反体制側:左翼(アカ)と体制側:首都警(狼)との対立を、「赤ずきん」の寓話になぞらえて描いた作品。脚本がとにかく秀逸で、アレンジされた「赤ずきん」の童話が断片的に挿入されるタイミングは素晴らしいの一言。沖浦監督の演出は手堅く、押井監督の脚本を見事に映像化している。内容は非常に重く、救いがあるわけでもカタルシスを得られるわけでもないが、多くの人に見て欲しい作品。

『天使のたまご』(1985年)
OVAとして発表された作品の劇場版。ファイナルファンタジーのイメージデザインで有名な天野喜孝氏がキャラクターデザインを務める。天野ファンは必見。天野氏の幻想的で線の多いキャラクターが見事に映像化されている。内容は「ノアの方舟」伝説を、押井監督が独自に解釈した物語がベースとなっている。台詞は非常に少なく、前衛映画とも芸術映画ともとれる作風で、一応ストーリーは存在するがこれといった山場やオチがあるわけではない。ほとんどの生物が石になるほど遠い年月が経過した後の忘れ去られた世界が舞台。それは「ノアの方舟」が新たな陸地を発見できなかった世界観と考えられており、ラストシーンでそう解釈できるようになっている。私は少女を「理想」、少年を「現実」、天使のたまごを「救世主」と単純に理解した。どことなく藤子・F・不二雄先生の短編「カンビュセスの籤」を想起させる世界観だった。この作品を「押井守の最高傑作」に挙げる声も多いと聞くが、この作品はあくまで実験作と位置づけるべきだろう。この後しばらく押井監督はアニメ業界から干されることになる。ただし一度見て損はない。

この4作品を見て思ったのは、

・学生運動の影響が色濃い。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では、諸星あたる達が学園祭で出店する喫茶店の名前が「純喫茶 第三世界」で、旧ドイツ軍の旗がひしめいている。『人狼 JIN-ROH』は言わずもがな、体制側と左翼の対立を描いた作品。押井監督は学生運動経験者。

・ミリタリー趣味全開。『~ビューティフル・ドリーマー』では、ハリアー戦闘機や、西ドイツ軍のレオパルド戦車が登場。『紅い眼鏡』『人狼 JIN-ROH』では、B級SF作品に登場しそうなプロテクト・ギアが登場。その他どの作品にも何かしらの兵器が登場し、そしてそれらの描写が妙にこだわり抜かれている。

・「夢と現実の狭間」をテーマとした作品が多い。これはほとんどの押井作品に共通するテーマでもある。

・メタ的な演出(楽屋落ちネタ)が頻出する。『~ビューティフル・ドリーマー』では、TVアニメシリーズのいい加減な設定を逆手に取ったかのように、友引高校が3階建てになったり5階建てになったりする。『紅い眼鏡』では、主人公が自分のいる空間が実は映画のセットだと気づく場面が多い。

・とにかく犬好き。ケルベロス・サーガ自体が狼(犬)をテーマとしているし、いたるところに押井監督が好きなバセットハウンドのモチーフが登場する。

・立喰いへのこだわり。押井作品の食事シーンはとにかくまずそうに見える演出が施されている。とにかく美味しそうに見える藤子作品とは対象的である。

・やはり押井監督は、閉鎖的な空間・暗い画面の描写に長けた監督だと確信した。



ロッキング・オン10月号を購入。オアシスの新作特集で、リアム・ギャラガーの単独インタビューが掲載されている。リアムは、自分の声に危機感を感じ(やっと気付いたのかよ)、オアシスの象徴ともいえるCigarettes & Alcoholをきっぱりやめたらしい。実際、YouTubeに最新のライブ映像が上がっているので見て欲しいのだけど、声質が1990年代頃の水準まで戻ってきているように思える。これで声がもうひと伸びしてくれれば、ライブのクオリティとしては十分だろう。

トラヴィスのフラン・ヒーリィのインタビューも掲載されている。トラヴィスの新曲"Something Anything"が久々にロックな感じでかっこいい。そもそもトラヴィスは、デビュー当時は「ポスト・オアシス」とか「オアシスの弟分」的な扱われ方をされていたバンドだ。2ndアルバム以降内省的でメランコリックな作風で独自の世界観を確立するまでは、彼らもオアシス・フォロワーだったのである。6枚目の新作は9月24日に発売されるけど、残念ながら前作以上に売れない予感がする。私はとても楽しみにしているが。

Travis : Something Anything




さっき前期の成績が出ていたので見た。
A+が5つ、Aが4つ、Bが1つ。思ったほど悪くなかった。

映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』レビュー

8月2日(土)に、映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』を観に行ってきました。
公式サイト:http://sky.crawlers.jp/

この映画は、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)、『イノセンス』(2004年) などの作品で知られる、映画監督の押井守氏の最新作です。あらすじ等は上記の公式サイトでご確認ください。

場所は吉祥寺バウスシアターで16:00の回。この日は公開初日ということもあって混雑を覚悟していたのですが、客の入りは7割程で、思ったほど混んではいませんでした。ちなみに、吉祥寺バウスシアターは映画館としては狭い部類に入るかと思います。あと、客層は10代後半~30代が中心でしたが、意外に女性客が多かったような気がしました。プロモーションで「恋愛映画」というテーマを強く押し出していたためでしょうか。

以下、トピック別のレビューです。原作は未読の状態です。また、押井監督が早稲田のシンポジウムで語った内容とも照らし合わせながら考えてみたいと思います。重大なネタバレを含んでおりますので未見の方はご注意ください。

〔オープニング〕
オープニングでは川井憲次によるピアノ曲をバックに、戦闘機による空戦から始まり、タイトルバックを経て、徐々に戦闘機が高度を下げて滑走路へと着陸するシーンが描かれる。これは撃墜された戦闘機を死んだキルドレの目線から描いたシーンだという。このピアノ曲は劇中でもオルゴールが奏でる曲として繰り返し聴くことができる。映画をラストまで見ることによって、初めてこのオープニングシーンの意味が理解できるように作られれていると思う。そもそもこの映画は序盤のシーンが終盤に繋がっていくような構造をしており、後述するこの映画の円環構造とも通底するのではないだろうか。

〔空戦シーンとCG〕
戦闘機による空戦は圧巻の大迫力だ。CGに抵抗さえなければ、リアリティを感じることができるだろうし、戦闘機好きなら間違いなく画面に見入ってしまうだろう。劇中の戦闘機は全てフルCGによって描かれており、トゥーンレンダリング(3DCGを2Dアニメ風の絵にする画像処理技術)は施されていない。戦闘機の質感はかなり写実的で、空戦シーンだけを見ると実写と見まごうほど。また、空戦シーンは地上のシークエンスと交互に配置されており、メリハリのある演出が施されている。時々スロー・モーションが効果的に使われており、空戦シーンの印象を高めている。少なくとも、『イノセンス』のときにはよく聞かれた、上映中に眠ってしまうような事態はほぼ避けられるのではないだろうか。これは押井監督の言うアニメーションにおける3つのマテリアルのうち「CG」に相当する。

〔背景〕
この映画の舞台は欧州の兎離洲基地というところであるが、モデルとしてアイルランドとポーランドを設定し、ロケハンを基にして背景が描かれている。押井守の映画においては「世界観」の構築が何よりも重要であり、まずそこからスタートするというのは前の記事で述べた通り。この背景は実に写実的かつ重厚に描かれており、スタジオジブリ作品にも引けを取らないと思う。ただ、カルスト台地など、やけに荒涼としたイメージばかりが使われており、キルドレ達が暮らす地上の空虚感を表象するために一役買っている気がする。

〔動画〕
前述したリアル志向のCGや背景と比べて、動画は非常にのっぺりとした質感である。どのキャラクターデザインも非常に単純な線から構成され、輪郭線に沿ってペンキでベタ塗りしたような印象を受ける。すなわち、この映画における背景とCGは立体=3D志向なのに対して、動画は平面=2Dを志向しているといえる。少なくとも、スタジオジブリ作品のように背景と動画が違和感なく溶け込んでいる映像とは対照的で、むしろ背景・CGと動画を積極的に乖離させることを意図しているようにすら感じられる。この実にのっぺりとした、すなわち平面的な動画は好き嫌いが分かれるようで、ブログ等でこの映画の試写会のレビューを読んでみると、キャラクターデザインが気に入らないという意見が多数散見された。個人的には、キルドレの無気力・無感情な雰囲気を出すためにあえてあのようなキャラクターデザインにしたのではないかとも思う。これは押井監督の言うアニメーションにおける3つのマテリアルのうち「セル=動画」に相当する。

〔空間〕
公式パンフレットによれば、この作品の世界観について「空と地上で全く別の世界にしたい。上空は圧倒的な3Dで作りこんだ、ある意味天国のような世界。地上は2Dの、重厚な大人たちの世界」ということを押井監督はイメージしたらしい。CGと背景について比較してみると、確かに地上は重厚な背景が織り成す大人の世界、対して空は開放的で、生の情熱を感じられるキルドレの世界、という印象付けがなされているように感じられる。しかし、空が地上と比較して開放的かといえば、私は別段そうは感じなかったし、むしろ空は閉塞的であるとさえ感じられた。画面の情報量は地上と比較しても空の方が多く、そのことが空の閉塞感を高めてしまったのかもしれない。『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』を見たときにも感じたことだが、そもそも押井監督は開放的な画面作りよりも、閉塞的な画面作りで真価を発揮するタイプの映画監督なのだろう。対して宮崎駿や芝山努といった映画監督たちは開放的な画面作りを得意としているように感じられる(『紅の豚』の空戦シーン、『映画ドラえもん』のタケコプターで飛ぶシーンなど)。押井監督と同じく閉塞的な画面作りを得意とする映画監督としては、アメリカの映画監督であるオリヴァー・ストーンが挙げられる。彼は『アレキサンダー』(2004年)のクライマックスで、戦闘シーンの舞台をあえて木々の密集する森の中に設定し、しかも遠景は煙を焚いて画面を意図的に閉塞空間にしている。同時期に公開された『ロード・オブ・ザ・リング』(2001~2003年)三部作では群集シミュレーション・ソフトを使用し、上空からの大写しによる圧倒的に広大な空間で繰り広げられる戦闘シーンを映していたのとは対照的である。また、『ワールド・トレード・センター』(2006年)では、パニック映画でありながら舞台のほとんどは瓦礫の中であり、そこに埋まってしまった2人の消防士が顔だけを残しているという状態で物語が進んでいくという構成だったのも印象深い。

〔時間〕
押井監督によれば、アイルランドは体感的に日本の3~5倍の時間が流れているらしい。そこで、私は映画を見ているときに「時間」を意識するようにした。確かに、作中の時間がとてもゆっくりと進んでいるような感覚が何となくではあるが体感できた。地上の舞台は荒涼としており、余り華やかさは感じさせない。そこで、キルドレ達は現実世界たる地上で生きることを宿命づけられている。しかも、キルドレは年をとらないので、映画の冒頭からラストまで一体どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。しかし、とてもゆっくりと進んでいるだろうというのは感覚的に理解することができた。「時間」を表現することが、押井監督の映画監督としての使命なのだという。

〔声優〕
本作のヒロインである草薙水素を演じたのは菊地凛子、主人公の函南優一を演じたのは加瀬亮である。また重要人物として、土岐野尚文を谷原章介が、三ツ矢碧を栗山千明が演じている。今回は主要登場人物4人を非職業声優の俳優が演じている。

演技が映画に溶け込んでたかといえば、菊地氏の声は少々浮いていた気がするし、加瀬氏の声は抑揚が足りなすぎるような気がした。これも、押井監督に言わせれば映画の「外部」の役割を演じてもらうためで、それで良いということらしい。演技が浮いているのはキルドレの異質性を強調するためで、演技に抑揚がないのはキルドレの無気力性・無感情性を表すためというのは何となく理解することができた。こうした演技が押井監督の意図したものであることが観客に周知徹底されていれば何の問題もないが、実際はそうではないし、この2名の演技はあまり芳しくない評判になるだろうと思う。私自身も、特に菊地氏の演技はあまり上手だとは思えない。菊地氏は、確かに2006年の映画『バベル』でアカデミー助演女優賞にノミネートされたし、聴覚障害者の女子高生という難しい役柄を演じきった彼女の功績は評価されてしかるべきだろう。しかし、彼女はあくまで言葉を発することができない役柄の演技で評価されたのであり、今回のような声だけの演技でその本領を発揮できるかは全く未知数だ。結局、菊地氏の演技は低評価にならざるを得ない。加瀬氏はよく知らないが、あの抑揚のない演技は好き嫌いが分かれるところだろう。

対して、後者2名の演技は映画の中によく溶け込んでいたと思う。谷原氏は土岐野のクールガイな雰囲気が良く出ていたし(これは谷原氏本人のキャラクター性も大きいと思うが)、栗山氏はこのまま声優でやっていけそうなくらい演技に違和感がなかった。ただし、谷原氏の演技は大人っぽすぎてキルドレらしからぬキャラクターになってしまったような気もするが。栗山氏は押井監督の個人的好みで起用したらしい。私も栗山千明は好きな女優だが、彼女はエヴァ好きを公言するほどのアニメファンとして知られており、やはりアニメに親しんでいると演技も自然と声優チックになるのだろうか。この「声優らしい」演技が押井監督の言う映画の「内部」に当たるのだろう。

〔戦闘機の意匠〕
主人公の優一たちが搭乗する戦闘機はプッシャー式、レシプロエンジンの「散香」。デザインはどことなく旧日本軍の戦闘機を思わせる。散香はプッシャー式というプロペラが後方に付いている珍しいタイプの戦闘機であり、プッシャー式戦闘機といえば旧大日本帝国海軍が太平洋戦争末期に対B-29の切り札として総力を挙げて開発した戦闘機「震電」が思い起こされる。震電は結局試作機のままで、実戦投入は間に合わずに終戦を迎えてしまった。この映画のメカニックデザイナーもドイツ軍好きの押井監督の要望でドイツ軍機っぽくデザインしたらしいが、結局震電のイメージが強く残ってしまい、結果として震電の意匠に近づいてしまったとインタビューで述べている。個人的には、旧大日本帝国海軍の戦闘機の意匠はどれも最高にかっこいいと思う(B-29の下品さに比べて、零戦のストイックな美しさは群を抜いている)。また、主人公の戦闘機は正統派の方がかっこいいという押井監督の指示により、奇抜なデザインは避けたとのこと。対して、劇中最大の敵「ティーチャー」が搭乗する戦闘機は、ターボチャージャーと、前方に二重反転式のプロペラを搭載した「スカイリィ」。映画を見ると分かるがどこか化け物じみた雰囲気が漂う禍々しいデザインで、これは英国軍機のイメージに近いといわれる。また、押井監督曰くスカイリィは前方にプロペラを搭載しており、その意匠も含めて男根の象徴ということらしい。また、プロペラ付近から弾丸を発射することが何のメタファーかはお察しの通り。つまり、スカイリィは劇中唯一の「大人」のパイロットである「ティーチャー」を表象するためのデザインだといえるだろう。劇中では戦闘機は後姿がアップになることが多いが、これは押井監督の「戦闘機は後姿が一番かっこいい」という独特なフェティシズムによるもの。ともかく全体的に戦闘機の意匠には彼の戦闘機フェチが全面に押し出されているような気がする。

〔押井監督のメッセージ?〕
押井監督によれば、この映画は多くの若者に見てもらいたくて制作したとのこと。最近彼は若者に向けた人生指南書ともいえる著書を2冊出版(『凡人として生きるということ』、『他力本願―仕事で負けない7つの力』、ともに幻冬舎刊)し、日テレやNHKに相次いで出演して若者に向けたメッセージを語っている。彼も50代後半を迎えて今の若者たちに何か言ってやりたい気持ちになったのだという。この映画の中にもそうしたメッセージを読み取ることができる ――やや遠回しではあるが。彼が言いたいのは、「人生は劇的な変化があるわけではないけど、退屈な日常の中でも昨日と明日では違う発見があるし、そんな人生も捨てたもんじゃないよ」ということだろうと個人的には思った。そうした彼のメッセージが端的に読み取れるのは、クライマックスで「ティーチャー」を撃墜することを決意した優一が発するモノローグだろう。詳細は映画を見て欲しいが、同じ日常の繰り返しの中にもささやかな違いがあるという趣旨のことを言っている。おそらく押井監督は、大仰なメッセージではなく、人生の中にあるささやかな希望を今の若者に伝えたかったのではないだろうか。

〔”キルドレ”の正体〕
キルドレという存在は、原作でも映画でもその多くは語られず、詳細は謎に包まれている。キルドレの真相の一部分は後半に碧の長台詞によって語られ、それによると、遺伝子制御の新薬を開発中に偶発的に生まれ(しかしどのようにして生まれたのかは謎のまま)、思春期の16~17歳くらいで加齢しなくなってしまう人間であるということ、上記の身体的特徴以外にも、断片的で曖昧な記憶や、無感情的な性格、頻繁に襲われるデジャヴといった特徴があるらしい。そして、キルドレ最大の謎は、彼らは戦死しても新たな肉体に個人の癖や特性、身につけた戦闘能力をそのまま引きついで生まれ変わることができるということだ。彼らが「永遠に歳を取らず、戦死しない限り死ぬこともない子供たち」と呼ばれている要因はここにある。事前情報では、彼らは唯一戦死することで死ぬことができる存在だと思っていたが、どうもそうではなく、戦死しても生まれ変わることで永遠に生き続けることを宿命づけられた存在ということらしい。こうしてみると、キルドレに与えられた運命は余りにも過酷である。彼らは本当に死ぬことが許されないのだから。そうしたキルドレの正体は、劇中で湯田川が新聞を折りたたむ癖が、湯田川の戦死後新任として配属された合田という男にも受け継がれているということ、そして主人公の優一自身も、マッチを折る癖、水素との間に感じたデジャヴといった伏線によって少しずつ語られ、エンディングまで見ることで何となくではあるが腑に落ちた感覚に浸ることができる。そして、強調しておきたいのは、キルドレの「戦死」は、映画の中では「未帰還」という状態によってのみ表象され、決して可視化されていないということである。だから彼らは本当に死んだのか、そしてどのように生まれ変わるのかといったことは映画から伺い知ることは難しい。他にも、やけに似ている水素とフーコの関係とか、母親たる整備士の笹倉と父親たる最大の敵「ティーチャー」との関連性や、カフェの前に佇む謎の老人など、暗喩じみた思わせぶりなシーンは色々あったが、1回見ただけの記憶、それにパンフレットと関連本の解説文だけではすべてを理解することは容易ではない気がする。できればもう1度見に行きたい。

〔エンディング〕
絢香が歌うテーマ曲は、ヴォーカルに力がこもりすぎていて歌詞がよく聞き取れなかった。彼女は『映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝』のときにも主題歌を担当しており、そのときにも感じたことだが、彼女はもっとナチュラルな歌い方に徹した方が良いと思う。ところで、エンドロールで席を立ってしまう観客が2、3人いたが実にもったいない。エンディング後のラストシーンがこの映画で最も重要なシーンであると思われるからだ。映画を見ていくうちに、あの 2人のうちどちらかが死ぬという結末は予想できたが、私もエンドロールに入る前の終わり方は実にあっけなく、「え、これで終わり?」と思っていたが、ラストシーンを見ることでようやく腑に落ちたような気がした。ただ、私の中にどこかもどかしい気持ちが残っているのも事実だ。

〔恋愛映画と円環構造〕
ラストの水素の台詞によって、この映画のテーマが恋愛であることが印象付けられる。ラストに登場するヒイラギ・イサムという新任の男に対する水素の態度は、タバコ、眼鏡、表情、そして台詞など多くの要素において優一の登場シーンとは異なっている。これは、「この映画では既に恋に落ちていたことを思い出す過程を描いている」と押井監督は述べていたが、まさしくその通りで、「あなたを待っていたわ」と最後の最後に水素が発する台詞は、「あなたを愛していたことを思い出した」という水素の意思表明に違いない。そしてその「あなた」とはヒイラギという男に向けられているが、その台詞はその男はクリタ・ジンロウ、そして函南優一の生まれ変わりだということの証左でもある。エンドロールの初めにはもう一度タイトルバックが表示されるが、これでエンディングがオープニングと繋がり、この映画が終わりのない円環構造の物語であるということが分かる。しかし、終わりのない円環構造であっても、ラストにおける水素の態度に表れているように、一度として同じ日常は存在しないということを伝えたかったのかも知れない。

〔総評〕
この映画は若者に向けて作ったエンターテインメント作品ということだが、まず、若者向けということに関しては、人間関係や将来に漠然とした不安を抱えているような「悩める若者」には一定の影響力を与えたと思う。押井監督は過去にもそうした悩める若者の心理を鋭く突いたコメントを何度か残しているし(彼の発言とされる、映画『耳をすませば』についてのコメントなど)、今回もそうした若者に対するメッセージを感じることができた。私自身も「悩める若者」を自称しており、最近はまるで風船のように人生に対する不安が膨れ上がる一方で、元々アンニュイと周りからよく言われる性格の上、さらにトム・ヨークのように悩むことが趣味になりつつあるのだが、そんな私自身にとっても何か得るところがある映画だったと思う。しかし、大多数の「普通の若者」に対してはどうだろうか。彼らはこの、余りにも過酷なキルドレの運命を目の前にすることで、この映画のささやかなメッセージ性は薄らいでしまうのではないかと思う。ゆえに、「悩める若者」という限定的な範囲内ではあるが、若者に向けたメッセージを伝えることは一応成功したといえるのかもしれない。

次に、「エンターテインメント作品」という側面についてはどうだろうか。押井監督は今作で今までの演出手法を封じ、わかりやすい演出を心がけたというし、実際今までの押井作品の中では最もわかりやすい部類の作品に仕上がっていると思う。ただ、「押井節」たる長台詞や、魚眼レンズなどの実写的手法はここにも見ることができ、この映画はまぎれもない押井作品だということを証明している。確かに空戦シーンは、宮崎駿監督(彼もまた飛行機フェチである)には負けたくないと豪語しているだけあって、その言葉に恥じない迫力に仕上がっていると思う。ただ、そうしたスペクタクル性と元々の静謐で、アンニュイで、哲学的な「押井節」とが合わさることで、結果的にこの映画をエンターテインメント映画とも、通好みの難解な作品ともいえないどっちつかずな作品にしてしまっていると思う。たしかにその2つの組み合わせはメリハリの効いた演出という点においては効果的であるが・・・。公開初日の様子を見る限り、興行成績は、残念ながら宮崎監督の最新作『崖の上のポニョ』の足元にも及ばないと思う。『崖の上のポニョ』は、盆休みで実家に帰省した時に家族と見に行く予定。

したがって、決して万人にお勧めできる映画というわけではないが、今までの押井作品の中では最も客を選ばない映画だと思うし、もっと多くの人に見て欲しい。あと、公式パンフレットは詳しい解説が掲載されているのでこの映画についてもっと良く知りたいという方にはおすすめ。

〔関連記事〕
押井守監督とともに語る新作『スカイ・クロラ』のためのシンポジウム@早稲田大学大隈講堂&『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』感想メモ

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